久留米空襲 体験生々しく 当時15歳の手記 遺族が本紙に寄せる

西日本新聞 筑後版

 間もなく終戦から74年。終戦4日前の1945年8月11日、米軍機約150機の大編隊による久留米空襲の戦災体験を後年、一冊のノートにつづった女性の手記を遺族が見つけた。死者214人、焼失家屋4500戸。当時15歳だった女性は「本当に恐ろしい生き地獄を見た」と生々しい記憶を書き残した。遺族は「若い人にも当時の状況や体験を知ってもらいたい」と手記を西日本新聞に寄せた。

 女性は2017年に87歳で亡くなった飯塚市の下川敏子さん(旧姓白木)。ノートは今年5月の三回忌の法要後、長男の弘さん(57)=東京=が遺品を整理中に見つけた。3ページにわたって久留米空襲に関する記載があった。約30年前に書かれたものとみられる。

 敏子さんは戦時中、久留米市小頭町の自宅で母親や妹たちと暮らしていた。終戦前年から軍服やテントを作る同市大石町の軍需工場(九州縫製)に動員され、空襲に見舞われた時も工場で勤務中だった。

 警戒警報、空襲警報の知らせも無いのに突然大きな爆発音。びっくりしていると、誰かが久留米駅あたりがやられていると言った(中略)工場の警備員の人が敵機来襲とメガホンで叫ばれたので、急いで作業机の下にもぐった。その途端、夕立の雨のような音、ザー…。天井から焼夷(しょうい)弾の火の雨が降りだした。逃げる場所も無いほど、一瞬にして火の海の中(中略)どうして外へ出たのか。非常袋だけは肩に掛け、走った、走った

 工場から飛び出した敏子さんを米軍機が襲った。

 グラマンが急降下し、ダダダーと銃撃。どこをどう逃げたのか。みんなが逃げる方へ。工場を振り返って見ると作業をしていたところの窓から、悪魔の舌の様な赤い火柱がワンワンと出ていて、私たちを追っかけてくるみたいだった(中略)久留米中が燃えている。それは火柱と黒煙で空は無かった

 命からがら筑後川の土手へ逃れた敏子さん。小頭町の自宅へ向かったが、自宅は焼失していた。

 近所の人も知り合いの人も誰も見当たらない。焼け跡に立って、家の者は、(妹の)和子は、ぼう然(ぜん)と立ちつくし、ハラハラと涙が出て止まらない

 西鉄久留米駅から吉井行きのバスに乗り、出身地の田主丸町にある母方の実家にたどり着いた。幸いにも家族に死者はいなかった。

 後5日で終戦になり悔しくてならない。5日終戦が早かったら、家が焼かれず、苦労も少しはせずに済んだのではないかと思う

 弘さんによると、敏子さんは生前「言葉にならないくらい恐ろしい思いをした」と語っていたという。弘さんは「15歳の少女が大空襲を逃げ回って田主丸まで帰ったのは奇跡かもしれない」と話した。

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