少年飛行兵だった父 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面

 私の父、上別府英昭(かみべっぷひであき)は旧陸軍の少年飛行兵だった。

 まだ15歳だった夏、双発機の通信士席に座って岡山県の基地を飛び立った。そして広島市の上空にさしかかった時、約2千メートルの高度から異様な光景を目にする。

 どす黒く焦げた地表。それまでにも空襲の跡を見たが、どれとも違う。瞬時に焼かれた、そんな印象が強烈に残った。基地に戻ると「広島に変わった爆弾が落ちた」という話でもちきりだった。黙って聞いた。末端の少年兵が余計なことを言えばビンタを食らう。それが原子爆弾と知ったのは、玉音放送の後だった。

 鹿児島県さつま町の農家に生まれた英昭は、9人きょうだいの四男だった。子供の頃、軍に納める馬を世話したが、よくかみつかれた。将来は農家は嫌だなと思い、鹿児島市の工業学校も下見に出かけた。その時、轟音(ごうおん)で飛び交っていたのが海軍機だった。

 錦江湾を海面すれすれに飛んでは機体を引き起こす。後で思えば、真珠湾攻撃に向けた魚雷投下の訓練だった。

 英昭は飛行機にあこがれ、陸軍少年飛行兵を志願した。平衡感覚の試験が難しく落ちたと思ったが、郷里から3人合格した中の1人になれた。

 1944年4月、大分にあった飛行学校へ、鉛筆6本とふんどし2枚を持って入校した。戦局が厳しさを増す中、ひたすら上官に殴られる日々だった。翌年5月に熊本県菊池市の基地で無線の教育を受けていた時、敵機が来た。

 「その時、郷里からずっと一緒だった山川鉄次君が亡くなった。火葬しようにも油は貴重で、古タイヤを敷いて4時間かけて焼いた。山川君は温厚な男で、クラリネットを吹く音楽好きだったよ。遺骨は家族が取りに来た」

 英昭は各地を巡り、いずれ自分も本土決戦で死ぬのだと覚悟したが、戦争は終わった。土産代わりにもらった無線機を背に汽車で鹿児島へ。途中、熊本の水俣駅の手前だったか、鉄橋が空襲で壊れており、川の渡し場へ降りた。そこにいた大人に「子供がなぜこんな物を持つか」と殴られ、無線機を取り上げられた。家に着くと次兄の遺影があった。沖縄で戦死していた。

 英昭は戦後、自衛隊の戦車隊員となった。鹿児島で定年を迎えてから、次第に少年飛行兵の思い出を語ることが増えていった。同期に多くいた朝鮮出身者が、朝鮮戦争では南北に分かれて戦った無残を語った日もあった。

 今は89歳。記憶はかなり薄れた。ただ、晩に焼酎を重ねると「山川君は15歳で死んだよ」と、鼻声になるのだけは変わらない。 (編集委員)

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