平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(4)パリ五輪 内地の権力に徹底抗戦

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 1924(大正13)年夏、パリ五輪が開幕した。岡部平太は日本の新聞社から依頼され、特派員として観戦。特に、陸上の男子5000メートルに注目していた。

 出場する岡崎勝男は、岡部が東京帝国大のコーチをしていた時の陸上部員。当時は外交官として在英日本大使館に駐在しており、後に外務大臣となる。

 1500メートルの選手だった岡崎のスピードに目を付けた岡部は、種目変更を助言。練習にも付き添い、英国オックスフォード大のコーチに指導を依頼するなど、育成に力を入れた。

 そのかいあって、岡崎は15分22秒2の日本記録で予選を通過。決勝は王者パーヴォ・ヌルミに完敗して途中棄権となったが、トラック競技では日本人初の決勝進出という結果を残した。

 男子マラソンでは、新聞社の取材車から金栗四三の走りを見守った。3度目の五輪出場となった金栗は期待されたが途中棄権。岡部は「世界との力の差を見せつけられた五輪だった」と振り返っている。

 サッカー決勝戦では観戦記を執筆した。優勝したウルグアイについて「子どもたちは、所構わず球を蹴って遊ぶ」「南米には引き分けがないので持久戦に慣れている」と詳細に記述。「パスとドリブルを重んじている」など戦術面も分析した。サッカーの本格的な観戦記は、これが日本で最初とされている。

 コーチ、報道という2役を果たした岡部だったが、実は大会直前、ある騒動に巻き込まれていた。日本での陸上予選をめぐり、早稲田、慶応、明治など13大学の学生たちが、大日本体育協会(体協)に「代表選手の選考基準が不透明で、協会が独断専行している」として抗議。役員が交代しなければ、体協主催の大会に参加しないと宣言していた。

 学生たちは「満州の雄」である岡部に協力を要請。体協への権力集中を時代遅れだと考えていた岡部は、これに呼応した。

「世界では競技ごとに組織をつくり、それぞれの国際組織に加盟している。選手選考も競技ごとに責任を持ってやるべきだ」

 岡部は新団体「全日本陸上競技連盟」を結成し、国際陸上連盟に加盟を申請した。これに体協も対抗して加盟を申請。最終的には外交ルートを使った体協側に軍配が上がった。

 しかし、この後には正式に日本陸上競技連盟が誕生し、岡部が指摘したように、競技ごとの団体が設立されていく。 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

福岡県の天気予報

PR

PR

注目のテーマ