長崎原爆の日 被爆継承は人類の責務だ

西日本新聞 オピニオン面

 「あの忘れ得ない劫火(ごうか)の日に受けた破壊のしるしを、今なお身に負っている皆さんの生きざまそのものが、最も説得力のある生きた平和アピールなのです」

 38年前、このメッセージに心を揺さぶられ、封印していた被爆体験を語り始めた人たちがいた。

 きょう8月9日は、長崎原爆の日。来年迎える被爆から75年という節目を前に、体験の記憶を後世に伝える、いわゆる「被爆の継承」について改めて考えたい。

 ■「忘れてはいけない」

 夏の青空に周囲の山々の緑が映える長崎市の「恵の丘長崎原爆ホーム」。1981年2月26日は大雪で、一面の銀世界だったことを現在の別館施設長のシスター、赤窄(あかさこ)ゆみ子さん(64)は覚えている。その日、初来日していたローマ法王ヨハネ・パウロ2世がホームを訪問。入所者たちに語り掛けたのが冒頭の言葉である。

 施設側はかねて被爆体験継承の必要性を認識していたが、入所者の多くは口を閉ざしていた。8月になると必ず体調を崩す人も少なからずいた。「いかに原爆の体験がすさまじいもので、口にもできない、その表れなのかと思っていました」と赤窄さんは振り返る。

 ところが法王の訪問後、施設側が体験記編さんへの協力を呼び掛けたところ、多くの人が自らペンを取ったり職員による聞き取りに応じてくれたりして、翌年、原爆体験記の第1集が発行された。

 原爆に妹と弟を奪われた卯野ノブ子さんは、「十三歳の夏の日」と題して「あの惨事は、一日も早く忘れてしまいたいことです。でも(略)忘れてはいけない、多くの人に話し、訴え続けなければいけない」との思いを刻んだ。

 その卯野さんも今年87歳を迎えた。法王の言葉を別館3階ホールで聞いた約100人の被爆者は、卯野さんら数人を除き、既に他界した。「被爆者のいない時代」が静かに迫り来る現実を映し出す。

 全国で被爆者健康手帳を持つ人は2018年度末時点で約14万5千人。平均年齢は82歳を超え同年度中に9162人が亡くなった。

 ■「つなぎ目」なしには

 被爆者たちは、あの巨大なきのこ雲の下で起きたこと、飛び散った放射能がもたらした今なお続く苦しみの実相を語り、時に傷ついたままの身をさらして、「ノーモア・ヒロシマ、ナガサキ」と叫び続けてきた。まさに被爆者たちの地道な「生きた平和アピール」が、核戦争の最大の抑止力となって今に至るのは間違いない。

 被爆の継承こそが核廃絶の根底をなすと確信する被爆地は、未来につなぐ手だてを模索し続ける。

 被爆体験を「受け継ぎたい人」が「託したい人」から聞き取って語り継いでいく事業も、その一環である。14年度に長崎市で始まった。長崎大3年の坂本薫さん(20)は今春、丸田和男さん(87)の体験継承者として本格的な活動を始めた。彼女の場合、県外学生が核に無関心なことに危うさを感じたのがきっかけだったという。

 丸田さんは原爆ホームの卯野さんと同じ13歳で被爆し、母親と旧制県立瓊浦中1年の同級生114人を失った。坂本さんは長崎商高の美術部員が制作した紙芝居を使い約30分、全身全霊を傾けて語る。「ピカッ」のひと言には聞く者の肌をあわ立たせる響きがある。

 「被爆者の方の体験を直接聞ける私たちの世代が、後世とのつなぎ目だと思う。私たちが頑張らないと、つながっていかない」。若い世代が語り継がなければ、継承の道は途絶えてしまうのである。

 ■消えぬ怒りと悲しみ

 「人類は広島、長崎から何も学んでいない」。11月にパウロ2世以来の来日が予定されるローマ法王フランシスコは、核軍縮が後退する現状について、こう口にすると伝えられる。法王のいるバチカン市国は核兵器禁止条約を最初に批准した3カ国の一つでもある。

 原爆投下は広島、長崎だけに起きたことではなく、人類全体に起きたことなのだと認識し、世界の人々、とりわけ若者が自らの問題と考えれば、核兵器禁止への賛同の輪は広がっていくに違いない。

 丸田さんが失った同級生の一人、谷崎昭治さんは、原爆の悲惨さを象徴的に世界に伝えてきた写真「黒焦げの少年」に写った人物とされる。自身も語り部を続ける丸田さんは「残された時間をあの日の記憶の継承に尽くすことが、罪もなく犠牲となった学友たちへの最大の供養になる」と信じる。

 丸田さんが74年たっても消えぬと言う怒りと悲しみ。その継承を被爆地だけに課してはなるまい。それは人類の責務である。

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