平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(5)審判不正 前代未聞のボイコット

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 パリから戻った岡部平太は、第7回極東選手権競技大会(極東大会)の日本陸上チーム総監督に就任した。パリ五輪で噴出した13大学の学生たちの大日本体育協会(体協)への不信感は根強く、体協は学生に人望がある岡部を据えることで事態を収束させようとしたのだった。

 体協と対立していた岡部は、一度は就任を断ったが、「スポーツ界のためと言われたら拒む必要はなかった」と振り返っている。

 1925(大正14)年5月、日本、中華民国、フィリピンが参加する大会はマニラで開幕。しかし、予想もしない事件が起きる。円盤投げや高障害(ハードル)で、予選を通過したはずの日本選手が相次いで失格にされたのだ。調べると、記録が改ざんされていた。

 審判団は開催地で構成する決まりで、全員がフィリピン人。岡部の猛抗議にも判定は覆らなかった。宿舎の部屋からは選手たちのすすり泣きが漏れてくる。

 「審判という名の暴力だ。選手があまりにもかわいそうだ」

 岡部はそう述懐している。大会4日目の400メートル決勝でも、トップの日本選手をフィリピン選手が妨害したが、違反は認められなかった。これで岡部は決断する。

 「日本チームは棄権し、退場する」

 選手全員の同意を得て、大会本部に宣言。日本選手団54人による前代未聞の国際大会ボイコットを敢行したのだった。

 体協会長の岸清一は激怒し、岡部に出場続行を命令。従わなければ岡部ら強硬派を除名すると通達してきた。岡部があらためて選手らに意志を尋ねると、1人を除く全員がボイコットに同意。すると体協はこの53人に対して宿舎からの即時退去を求め、帰国旅費も支給しないと通告してきた。

 岡部は満州にいる妻のステや知人から借金して、旅費を調達。宿舎は選手団に同情した日本人の旅館主が無料で泊めてくれた。

 この時の心境を記した手紙を、岡部は米国の恩師エイモス・アロンゾ・スタッグに送っている。

 「アマチュアはルールとモラルに従わねばならないだけでなく、モラルのない世界とは一線を画す権利も持っていると信じます。それがアマチュアのフェア精神だと考えます」

 日本の新聞は当初、選手団を批判していたが、帰国した岡部が報道陣に経緯を説明すると一転、記事は体協批判の大合唱となった。 (文中、写真とも敬称略)

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