平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(6)交流の礎 張学良に初対面で共鳴

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 「昭和天皇の御成婚記念としてスポーツ行事を考えてほしい」

 満州を統括する関東庁から、岡部平太にそんな相談が来たのは、1927(昭和2)年11月。南満州鉄道(満鉄)体育責任者として、5万人を収容する大連運動場の建設に取り掛かっていた時だった。

 岡部は、日本陸上界では初となる国際大会の開催を提案した。世界を行脚し、極東選手権競技大会の稚拙な運営を体験したことで、先進国との交流が必須と考えていたからだ。相手はフランス。その実力を見極め、「勝算あり」と考えた上でのことだった。

 翌年1月、準備で内地に向かった岡部は、陸上の人見絹枝を指導。「岡部さんの顔は怖いが、情にもろい。女子にもこんな大先輩が欲しい」。そう書き残した人見は、その夏のアムステルダム五輪800メートルで2位に入り、日本女子初の五輪メダリストになった。

 日仏対抗陸上競技大会は、9月に大連運動場で開催。岡部の読み通り、日本はフランスに勝利した。

 しかし、時代は暗い影を落とし始めていた。大会3カ月前の6月4日、旧奉天(瀋陽)で関東軍が軍閥指導者、張作霖を爆殺。その後、満州国成立を経て、日中戦争、太平洋戦争へと戦火は拡大していく。

 日仏大会の後、選手団は張作霖の息子、張学良に旧奉天での国際大会に招待される。張学良は父を殺されたばかりだったが、関東軍との全面対決を避け、融和の道を模索していた。

 岡部を私邸に招いた張学良は、スポーツ交流を提案する。岡部は「スポーツに国境はない」と共鳴。サッカー、バスケットボールなど日中の競技大会を開催していく。

 岡部が恩師、エイモス・アロンゾ・スタッグに送った手紙から、その決意が読み取れる。

 「日中関係は幸福からかけ離れています。両国の政治家や外交官の失敗によるもので、両国民は扇動され、反感は高まっています。私は後半生をこの仕事に懸けようと決心しました」

「両国の若者が相互理解を深めるほかに解決の道はありません。彼らが出会い、フェアプレーの精神を広め、良いスポーツマンシップを育むことが肝要です。生きているうちに実現できないかもしれませんが、その精神は最後の勝利に向けて生き続けると確信しています。その基本にあるのがスタッグ精神です。あなたに感謝します」

 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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