旧日本軍の原爆計画 痕跡残す町 終戦までウラン採取 福島県石川町

西日本新聞 一面

 広島、長崎への原爆投下から74年。日本は悲惨な被害を受けた唯一の戦争被爆国だが、一歩誤れば被害を与える原爆投下国になりかねなかった歴史はあまり知られていない。第2次世界大戦中、旧日本軍が原爆開発を目指してウラン採取を試みた福島県石川町を訪ねた。

 同県南部の郡山市からJR水郡線で約50分。石川町では1945年4月ごろから、陸軍とその要請を受けた理化学研究所が地元の石川中学3年生らを動員し、微量のウランを含むペグマタイトという岩石の採掘を急いだ。岩石からウランを抽出しようとした選鉱場の跡が町内には今も残る。

 原爆開発計画と石川町の関係を研究する同町文化財保護審議会会員の橋本悦雄さん(70)によると、陸軍が原爆の調査に着手したのは40年春。理研への研究要請は41年5月。日本もドイツや米国などとの原爆開発競争に乗り出した。

 理研で研究責任者となった仁科芳雄博士らは43年、「技術的にウラン爆弾製造は可能」との報告書をまとめた。44年には日本軍が米国を原爆攻撃する科学小説が雑誌に掲載されている。橋本さんは「少なくとも政府や軍部は原爆が悲惨な結果を招くことは分かっていた」とみる。研究名は仁科氏の名前から「ニ号研究」とされた。

 戦況が悪化する中、軍部は原爆開発に逆転を期待したが、機材や物資の不足で研究は遅れるばかり。内地に生産地がなく、制海権が奪われたため海外から運べなくなったウランの調達は深刻だった。微量のウランが含まれる石川町産出のペグマタイトに望みをつなぐしかなかった。

 石川町では希元素鉱物の専門家である飯盛里安博士が陣頭指揮。軍隊に召集された若者に代わり中学生たちが採掘に動員された。炎天下で、スコップもハンマーもなく手掘りだったという。「マッチ箱一つの大きさで大都市を破壊する兵器になると激励された」との生徒の証言もある。

 作業は終戦の8月15日まで続いたが、開発自体は45年4月12日の東京空襲で理研の研究施設が全焼し、事実上破綻していた。陸軍の中止決定は6月。その決定は中学生には伝わらなかった。選鉱場に残っていた岩石は、連合国軍総司令部(GHQ)の追及を恐れて川に流したり、地中に埋めたりしたという。

 核分裂の連鎖反応を起こしやすいウラン235は天然ウランの0・7%しかなく、核爆発には純度を90%程度まで濃縮する必要があり、高度な技術力や大量のエネルギーが求められた。広島に投下された原爆には60キロものウラン235が使われたとされ、敗色濃厚だった日本にはそもそも開発は難しかったとも言える。

 並行して開発していた海軍と京都大の「F号研究」も7月に打ち切られ、日本軍の原爆開発は頓挫。橋本さんは「国策に翻弄(ほんろう)された悲しくつらい時代」と指摘する。日本軍の原爆開発の経緯は、ノンフィクション作家、保阪正康さんの「日本原爆開発秘録」(新潮文庫)にも詳しい。

 ペグマタイト 石英や長石の大きな結晶で構成され「巨晶花こう岩」とも呼ばれる。長石は陶磁器の上薬、石英はガラスの材料になる。軍事物資にも使えるジルコンなど希元素鉱物も含む。戦前・戦中を中心に福岡市西区の長垂(ながたり)山など各地で採掘された。福島県石川町は、大津市と岐阜県中津川市とともに日本三大ペグマタイト産地に数えられ、1960年代半ばまでは多くの鉱山があった。

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