少女像の前に立って

西日本新聞 オピニオン面

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕3日で中止に追い込まれた。1週間たった今も、波紋や論争が続いている。

 この企画展に元従軍慰安婦を象徴する少女像などが展示されたことから、抗議のメールや電話が実行委員会事務局に殺到した。

 「ガソリン携行缶を持っておじゃまする」との脅迫もあり、実行委が「安全な運営ができない」と判断したのが中止の経緯だ。

 気にくわない言論や表現を脅迫で封じようという風潮が広がっていることには危機感を覚える。一方で「公的施設を使った展示としては不適切」との声も根強い。表現の自由、政治家の介入、公金支出の是非など、この問題の論点は多岐にわたっている。

 ここで少しばかり、私の経験を聞いてほしい。

   ◇    ◇

 今回の企画展は、2015年に東京・練馬で開かれた「表現の不自由展」の続編として企画された。この時の展覧会も、展示や掲載を拒否された作品を集めることで「表現の自由」の現状を考える趣旨だった。

 実は私は当時、その展覧会に足を運んでいる。

 冬の昼下がりだった。大きな話題を呼んでいたわけでもなく、小さなギャラリーを訪れていた観客はそれほど多くなかった。

 照明の明るさを落とした空間に少女像はひっそりと展示されていた。「ああ、これか」という感じで、私はその像と向き合った。

 その時の私の中に湧いた感情は-。「快」か「不快」かに分ければ、率直に言って「不快」だった。

 そして私は像の前に10分ほど立ち「自分がなぜ不快に感じたか」を考えた。

 国対国、民族対民族、ナショナリズム対ナショナリズム。そんな大きな対立構図に、私という個人も組み込まれているのか、それは避けられないことなのか、などと思考は巡った。

 答えは出なかった。私はもともと、大事なことには簡単に答えを出さないようにしている。判断を保留して考え続けることが重要だったりもするからだ。

 ただ、像の前に立ってあれこれ考えた時間は、私にとって有益だった。それは間違いない。

   ◇    ◇

 今回の中止問題は、主に「表現の自由」を巡り、「少女像の制作者や展示する主催者」と「展示に反対する抗議者や政治家」との対立として論じられている。

 私は、そこにもう一つの視点を加えたい。「この展示を見に行こうとしていた人々」-つまり対立の第三者にとって、この出来事は何だったのか、である。

 その人たちは必ずしも、少女像の制作者やそれにまつわる韓国内での運動に賛同しているわけではなかろう。まず見て、自分で判断しようと思っていた人々が少なからずいたのではないか。そしてもし見ることができたなら、何か考えるきっかけをつかんだかもしれない。かつての私がそうだったように。

 「嫌いなものは見たくない」という心情は分かるにせよ、「他人が見るのも、見せるのも許さない」というのは明らかに行き過ぎである。人が何かを考える、その機会まで奪う権利は誰にもないからだ。

 まずは見て、考えたいのだ。良いとか悪いとか、答えを出す前に。
 (特別論説委員)

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