平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(7)満州事変 友の裏切りで絶体絶命

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 順風満帆に見えた岡部平太の身に、人生を一変させる事件が起きる。40歳になったばかりだった。

 1931(昭和6)年9月18日、旧奉天(瀋陽)郊外の柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)線路が爆破された。関東軍は張学良率いる中国軍による破壊工作と発表。満州事変が勃発(ぼっぱつ)したのだった。これは満州独立に向けた関東軍の謀略で、翌年には満州国が成立する。

 岡部はこの2年前、張学良の紹介で奉天にあった馮庸(ひょうよう)大の陸上部コーチに就任していた。創設者の馮庸は張学良の父、張作霖と盟友関係にあった軍閥の息子。馮庸と張学良が義兄弟の間柄だったことから、岡部はスポーツに造詣が深い馮庸と親交を深めていた。

 その馮庸が満州事変の4日後、「反日分子である」として関東軍に拘禁されてしまった。岡部や満鉄幹部の働き掛けで釈放された馮庸は、岡部の自宅に滞在。そこで岡部は、関東軍の了解も得て、馮庸を欧州へ亡命させる計画を立てた。

 しかし、馮庸は寄港地の上海で下船。南京にいた中国国民党の蒋介石に会い、国民党に合流してしまったのだった。

 馮庸の裏切りで、岡部は関東軍ににらまれる。知人の手引きで中国服を身にまとい、土木工事をしたり、レストランのボーイをしたりして身を潜めていたが、それもつかの間。ついに関東軍から出頭命令が出る。

 「社会的な地位はもとより、家族関係も一切を清算して、単独で出頭せよ」

 岡部は内地や満州の知人に手紙をしたためた。

 「もう俺は死ぬだろう。家族のことを頼む」

 妻ステ、長女鞠子、次女瑠璃子、長男平一と別れの儀式「水杯(みずさかずき)」を交わし、岡部は関東軍に出頭。処分は「銃殺」と決まったが、実施直前で無罪放免となる。

 理由は定かではないが、一つは満鉄社員やスポーツ関係者から多くの助命嘆願があったこと。もう一つは、岡部が懇意にしていた関東軍作戦主任参謀の石原莞爾(かんじ)が助けたとされている。

 この一件で岡部は責任を取り、満鉄を退職。第3回レークプラシッド冬季五輪の団長にも推されたが断り、スポーツ界のすべての職から身を引いた。

 その後、退職金を元手にエビの貿易を始めるが失敗。次に「靴屋」という屋号の靴店を開店。若者にサッカーシューズなどが飛ぶように売れたが、代金を回収せず、瞬く間に閉店に追い込まれたのだった。 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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