平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(8)大陸放浪 スポーツの力を信じて

西日本新聞 ふくおか都市圏版

中国大連市にある旧関東軍総司令部 拡大

中国大連市にある旧関東軍総司令部

 1933(昭和8)年、国際社会に「満州国」の独立を承認されなかった日本は、国際連盟を脱退した。スポーツ界もこの問題に無縁ではなく、翌年にフィリピンのマニラで開催される第10回極東競技選手権大会(極東大会)に満州国を参加させるかどうかで揺れていた。

 これが絶望の淵にいた岡部平太にとって、光明をもたらすことになる。

 スポーツ関係者や新聞社から意見を求められた岡部は、満州国参加賛成派の立場として34(昭和9)年1月、新聞に「満州体育改造論」を発表した。

 「体育を国の政策に利用することは、近代国家の為政者が等しく採っている政策であり、適当な手段だと思う」

 国家権力によって命を絶たれようとした岡部が考えたことは、逆に国の力をスポーツに利用することだった。そして、弱体化していた満州スポーツ界を再建しようと、新たに「満州陸上競技革新連盟」を設立。極東大会は中華民国が満州国の参加に反発し、大会そのものが空中分解するが、岡部はスポーツ界に復帰した。

 関東軍はこのころ、親日の政権樹立を目指し、満州国に隣接する河北省を占領。ただ、北京や天津など現地の反日感情は強かった。そこで岡部は「対日感情を和らげるにはスポーツが最適」と提案。関東軍は、中国人脈に精通する岡部を天津の特務機関に嘱託として迎え入れる。

 岡部はその後、河北省に設置された冀東(きとう)防共自治政府の行政長官も務めるなど、大陸を放浪しながらスポーツによる日中融和に尽力した。

 その功績が認められた岡部は40(昭和15)年の開催が決まった東京五輪の陸上強化コーチに就任し、満州を去る準備を進めていた。

 しかし、歴史は暗転していく。37(昭和12年)7月、北京南西部の盧溝橋で日中両軍が衝突し、全面戦争に突入。東京五輪は日本政府が開催を返上し、幻に終わった。

 五輪誘致に尽力した国際オリンピック委員会(IOC)委員の嘉納治五郎は翌年、IOCカイロ総会から帰国の途中、船上で息を引き取った。

 岡部が嘉納の下を去って17年の歳月が流れていた。

 「これまでの不義理をお許しください。スポーツ界のために全力を尽くします」

 千葉県松戸市の墓前でそう誓った岡部だが、道のりは平たんではなかった。 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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