原爆短歌 何を伝える 吉田昭一郎

西日本新聞 オピニオン面

 短歌は、一瞬を短い言葉で歌いつつ、背後の世界をも思わせる文芸だ。歌人の桜川冴子さん(福岡女学院大准教授)に多くの歌人の作品を教えていただき、改めて知った。

 〈友探し原子野さまよふわが傍を死屍積むリヤカーいくつか過ぎにき〉

 〈母は死に抱く子は生きて乳さぐるを見しがその後の生死を知らず〉

 経済学者で九州大名誉教授だった小島恒久さんは、長崎高商(現長崎大経済学部)の学生の頃、爆心地から2・5キロの山あいの学校で被爆した。翌日から爆心地一帯で、友人を捜した時の歌だ。

 「焼け尽くした野に余燼(よじん)がくすぶり、あちこちに焼け焦げた遺体がころがっていた。なかには、なお生きて呻(うめ)いている人もあり、なまぐさい異臭があたり一面にただよっていた。その荒寥(こうりょう)たる光景には、人類の最後を思わすような絶望的なむなしさがあった」。小島さんは、歌集「原子野」でこう書いている。

 〈瓦礫の下に救ひもとむる声あるに術(すべ)なく過ぎき今に夢見る〉

 残像は生涯、脳裏から消えなかったか。

 草野源一郎さんは、当時、爆心地近くの長崎医大(現長崎大医学部)の学生で、病気休学のため長崎県諫早市の自宅にいた。諫早からの救護隊に加わり、大学構内や下宿跡などで学友らを捜し歩いた。

 〈瓦礫積み立木くすぶる浦上の人掻き消えし静寂をゆく〉

 〈壊滅の医学部をめぐり呼びつづけ眼科地下室に生きて逢ひ得たり〉

 「死の街と化した瓦礫(がれき)の原野は人通りもなく、何かひんやりとしていた。生きのびたものも放射能のため一週間のうちに殆(ほとん)どが死に絶えた」=短歌現代別冊『昭和の記録 歌集八月十五日』(2004年8月発行)より。

 竹山広さんは、浦上第一病院から退院の日、迎えの兄を待っていて被爆した。竹山さんは病院を出て、兄が来たであろう道をたどる。そこここに黒焦げの遺体。息がある人は水を欲した。

 兄は見つかったが、終戦の日に亡くなる。

 〈欲る水をいくたびわれは拒みしか愚かに兄を生かさんとして〉

 水を飲み過ぎると死期が早まると伝わっていたようだ。それでも消えぬ悔い。

 何度目かの原爆忌に歌ったのだろう。

 〈十一時二分の空に鳴る鐘の天の叱咤とおもふまで鳴る〉

 3人の歌人は、既に鬼籍に入っている。
 (都市圏総局)

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