平和台を創った男 岡部平太伝 第4部(9)長男平一 台北帝大から学徒出陣

西日本新聞 ふくおか都市圏版

 岡部平太は1939(昭和14)年冬、立ち寄った北京で学者の中江丑吉(うしきち)と出会う。日本にルソーを紹介した思想家、中江兆民の一人息子で、北京に滞在しながら二十数年、中国の古代史を研究。日中戦争を「世界戦争の序曲」と断言し、相手が誰であろうと戦争反対を唱えていた。

 岡部は丑吉から「殺し合う思想は動物だけに存在する。日本は戦争に負けて四つの島に戻る」と言われ、共鳴。丑吉から北京滞在を勧められ、北京国立師範大の体育専任教授に就任する。

 抗日運動が強まる中、岡部は満州国の首都、旧新京(長春)で開かれた日満華交歓競技会に、中国人チームを率いて参加。「崗和平」という中国名を名乗り、中国大陸の平和を願って再び動きだした。

 北京の生活が1年半を過ぎた41年(昭和16)年6月、長男平一が台北帝国大学の予科に進んだ。平一は小学校6年から大連の家族と離れ、岡部の実家がある糸島・芥屋村の小学校に編入。その後は福岡市内の福岡中学に通い、5年間の下宿生活をしていた。

 平一は父譲りでスポーツ万能だった。野球、サッカー、テニス、剣道…。誰よりもうまかった。負けず嫌いで、サッカーの練習試合に負けると、ただ一人地面に伏して悔し涙を流したという。予科の同級生は「スポーツ、勉強、何でもできた。武骨で純粋で正義感が強く、強烈なリーダーシップがあった」と評している。

 岡部は平一が北京を訪れると、丑吉の元に連れて行った。丑吉はヒューマニティー(人間性)の大切さや大衆が生きる意味を平一に説いて聞かせた。

 「現代日本に有する唯一の歴史的哲人であり、自分の目には真実な正しい模範に映った」

 平一はそう書き残し、丑吉が42(昭和17)年に亡くなった時は「日本のために、真理のために泣かざるを得なかった」と振り返っている。

 時局は悪化していた。41(昭和16)年12月8日、日本がハワイ真珠湾攻撃を開始し、太平洋戦争に突入。戦火が激しくなると、国は文科系学生の徴兵猶予措置を撤廃した。学徒出陣を余儀なくされた平一は、岡部に手紙を書いた。

 「父上様 私は海軍航空隊を志願しました」

 台北帝大に進学してわずか2カ月後の43(昭和18)年12月、平一は長崎県の佐世保海兵団に入営した。 (文中、写真とも敬称略)

※小説「Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)」(著者・橘京平、幻冬舎刊、1,200円)が好評発売中

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