元戦犯6年間の獄中記 福岡大空襲後に米兵4人処刑 償いの思い遺族継ぐ

西日本新聞 社会面

約6年にわたって書き続けた獄中日記。減刑が決まった直後には「戦争は嫌だ」と記した 拡大

約6年にわたって書き続けた獄中日記。減刑が決まった直後には「戦争は嫌だ」と記した

冬至堅太郎さんの死後、自宅の地蔵4体は、生前つながりがあった寺院「油山観音」に移された=福岡市城南区 冬至堅太郎さん

 数多くの悲劇が繰り返された戦争が終わって74年。1945年6月の福岡大空襲直後に米兵パイロットを処刑した「西部軍事件」の実行役となった元BC級戦犯による日記が注目を集めている。絞首刑を宣告されて獄中の苦悩を記した内容で、「ある『BC級戦犯』の手記」として中央公論新社から出版。原本は9月29日まで福岡県嘉麻市の碓井平和祈念館で公開されている。家族が戦犯の事実を隠すケースもある中、出版に同意した遺族は「国と国の争いなのに負けたがゆえに個人が裁かれる。そんな戦争の矛盾を知ってほしかった」と言う。

 日記を記したのは元陸軍大尉、冬至堅太郎さん(1914~83)。福岡市の自宅書斎に残されていた。三男克也さん(65)によると、9冊のファイルにとじられていたが近年まで内容を精査していなかった。

 冬至さんは福岡大空襲で母親を亡くした。翌日、その憤りから米兵処刑の執行役に自ら志願し、4人に軍刀を振り下ろした。戦後上官から逃亡を勧められるも固辞。自決も考えたが思いとどまった。

 日記は巣鴨プリズンに収監された46年8月30日から、52年10月までの約3千ページ。最初は家族への思いがにじむ。妻、父だけでなく、亡き母にも言葉を連ねる。

 <お母さん、教えて下(くだ)さい。私はどうしたら肉親を思うこの苦しさから救われるのでしょうか>

 責任逃れをする上官への不信はありつつも、処刑の責任は一貫して認める。他方、国のためという大義を失った戦犯として死ぬことに苦悶(くもん)する。

 <戦争の勇士に比べて遥(はる)かに深酷(しんこく)な「死」の苦痛を味わわされるのだ>

 48年12月29日は<遂(つい)に来るべき判決の日は来た 絞首刑!>と始まる。ただ、その後の筆致は冷静だ。死を前にした自身の心理や信仰、処刑場に連行される仲間の態度、表情も後世に残そうと記録した。

 <世のために役に立つことをもって死の解決の一つの方法と考えている>

 「ある『BC級戦犯』の手記」の編者で宗教学者の山折哲雄さん(88)は「死を前提にどう生きるかを実践した。それを彼に強いたのは国だが、国家の責任の問題は解決されていない。戦後は終わっていない」と言う。

 冬至さんは50年に減刑され、56年に出所。福岡市で家業の文具店を引き継いだ。会社経営の傍ら、自宅の庭に地蔵を置き始めた。地蔵は4体。あやめてしまった米兵の数と同じだ。克也さんによると、冬至さんは生前、償いの思いを持ち続け、戦犯の事実を隠さなかった。

 「その生き方を知ってほしかったのだと思う。だから遺志を継ぎたい」

 冬至さんは減刑が決まった直後、米兵看守らが朝鮮戦争のために出発したことを知り、日記をこう結ぶ。

 <戦争は嫌だ>

 戦後74年。体験者が減り、記憶も風化していく中、文字として残された非戦への思いは色あせない。

 西部軍事件 1945年6月から8月にかけて起こった旧陸軍西部軍管区司令部によるB29搭乗員処刑事件。福岡大空襲から一夜明けた6月20日以降、計3回にわたって30人以上が処刑されたといわれる。

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