薩摩からロシアへ、世界初の露日辞典の著者・少年ゴンザを捜して

西日本新聞

ゴンザの死から18年後に建設が始まったショッピングモール「ゴスチーヌイ・ドヴォール」のアーケード。古都には18世紀の面影が多く残っている 拡大

ゴンザの死から18年後に建設が始まったショッピングモール「ゴスチーヌイ・ドヴォール」のアーケード。古都には18世紀の面影が多く残っている

「水の都」とも呼ばれるサンクトペテルブルクには運河が多く、リバークルーズを楽しむ人も多い=7月20日 1703年に街の建設を始めたピョートル大帝の像「青銅の騎士」=7月17日 スモーリヌイ大聖堂。古い建築物も塗り直されて往時の雰囲気を感じることができる=7月17日 7月中旬、北緯60度の街は午後10時半をすぎても明るい=7月18日 午後11時すぎ、ようやく日が落ちたサンクトペテルブルク=7月18日 サンクトペテルブルクのメインストリート、ネフスキー通りは夜も人通りが絶えない=7月19日 サンクトペテルブルク中心部の路地 市郊外のペテルゴフにある「夏の宮殿」 市郊外のペテルゴフにある「夏の宮殿」 市郊外のペテルゴフにある「夏の宮殿」

 今から300年ほど前、ダミアン・ポモルツェフという少年がいた。生まれは薩摩、本名はゴンザ。乗っていた船が嵐に遭い、ロシアに漂着。船員のほとんどが殺害される中で命を助けられ、その後ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルクで日本語教師になった。六つの書籍を著し、中でも1万2000語を収録した「新スラブ・日本語辞典」は世界初の露日辞典であると同時に、日本語訳が薩摩弁で記された貴重な資料として知られる。彼が1739年にこの世を去って今年で280年。未だ謎が多いゴンザの足跡と思いを訪ねて、あなたの特命取材班が現地へ飛んだ。


【写真:夕暮れのサンクトペテルブルクの街並み。280年前、ゴンザはこの空に何を思っただろうか】

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 7月上旬、ロシア・サンクトペテルブルク。文豪ドストエフスキーの「罪と罰」で知られるセンナヤ広場の向かいにある観光案内所で、官民による観光の取り組みを紹介する会見が開かれた。「サンクトは歴史的な街であるだけではなく、大都会でもあります。街の開発とのバランスが一番大事です。歴史的な建物を使ってアートスペースを生み出すことがその一つです」――。ウラディミロバ・リューバさん(29)は記者たちに、当局者の説明を分かりやすく訳してくれた。

【写真:記者会見で通訳を務めた、ウラディミロバ・リューバさん】

 サンクトペテルブルク出身で、フリーランスの日本語教師。日本語を学ぶきっかけは「(アニメの)セーラームーンで、日本語にはまりました」と笑う。岩手大に留学し、ユーチューブでは日本語で街を紹介する動画も公開している。

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 リューバさんらサンクトペテルブルクでの日本語教育の源流は、一隻の漂流船にある。

 1728(享保8)年、薩摩藩の船「若潮丸」は米や絹織物などを積んで大坂に向かった。17人の乗組員の中に、船頭の父について航海を学ぶためについてきた11歳のゴンザがいた。しかし船は嵐で6カ月間漂い、カムチャッカ半島に流れ着く。現地でコサックの一隊に襲われた一行は、ゴンザと商人のソウザを残して殺害されてしまう。ゴンザの父も、その中に含まれていた。

【写真:サンクトペテルブルク市内の書店では、棚の一列が日本語学習者向けのコーナーになっていた】

 その後、役人によって解放されたゴンザとソウザは4年かけてシベリアを移動し、1733年、首都サンクトペテルブルクに到着した。宮殿で女帝アンナ・イワノヴァナはゴンザのロシア語の能力に感嘆し、2人を改宗させて、ロシア科学アカデミーでロシア語を学ばせた。翌年、ソウザが病死。その後も語学を磨き続けたゴンザはアンナ女帝の勅命で、ロシア語の研究とともに、少年たちの日本語教育に携わった。

 ロシア語の「早く」を「ファヨ(早う)/イセヂ(急いで)」と訳した言葉から始まる、約1万2000語を収録したゴンザの「新スラブ・日本語辞典」。その編さんは、ソウザの死後わずか11日目に始まった。

【写真:ゴンザがまとめた「新スラブ・日本語辞典」(村山七郎氏編の日本版)。カタカナで示されたゴンザの訳は、いずれも薩摩弁だ】

「格闘闘技場」は「スモトイバ(相撲取り場)」
「多人数家族」は「ニジガウカ(人数が多か)」
「燃やす」は「モヤカス(燃やかす)」
「労働でつかれること」は「ダルコト(だること)」
「馬のいななき」は「ウマンオラブコト(馬のおらぶこと)」
「魂をもつもの、生物」は「イキタモン(生きたもの)」
――辞典を開くと、薩摩弁の訳にゴンザの孤独と決意がにじんでいるようにも見える。

 ゴンザは1739年12月、大寒波の中21歳の生涯を閉じた。科学アカデミーがソウザとゴンザそれぞれについて、現地で活動した記録をとどめるために首像を制作したとされる文献が残っている。首像は現在、世界三大美術館の一つのエルミタージュ美術館にほど近いロシア科学アカデミー・ピョートル大帝記念人類学民族学博物館「クンストカメラ」に収められている。かつては図書館などを備えた研究施設であり、ゴンザたちも通っていた場所という。

【写真:首像が収められているクンストカメラ。市の中心部を流れるネヴァ川のほとりにあり、見学者が絶えない】

 ゴンザの出生地は「薩摩」だが、その詳細な場所は特定されていない。「首像も含め、ゴンザには、まだまだ多くの謎が残されています」。「鹿児島方言研究会」会長で、ゴンザの顕彰にも取り組む種子田幸広さん(69)=鹿児島市=は言う。

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【写真:鹿児島弁の研究や伝承に取り組む種子田幸広さん】

 方言文化伝承の活動の中で、ゴンザの存在を知った種子田さんは2010年、サンクトペテルブルクを訪問した。大きな目的は、異国の地で果てたゴンザの御霊を鹿児島に連れて帰ることだった。

 クンストカメラで首像について学芸員に尋ねたところ、「日本人はみな、この像を『ゴンザ』というが、これはゴンザではなくモンゴロイド系の人のモデルだ」と答えられた。「まさか、と思い何度も確認して問い直したが、断言された。日本に戻って研究者たちに伝えたが、笑われるだけだった」と話す。

【写真:クンストカメラに収められているゴンザ(手前)とソウザ(奥)の首像。しかし種子田さんは「モンゴロイド系の人のモデルだ」と説明されたという(種子田さん提供)】

 ゴンザは正確な名前も分っていない。「権左衛門(ごんざえもん)、なのかもしれないが、証拠はない」。そしてその出身地についても「薩摩のどこなのか、確定はできていない」と種子田さん。

 種子田さんらメンバーは10年ほど前、露日辞典の言葉を基に聞き取り調査などを進めた結果、その答えが鹿児島県いちき串木野市の羽島地区だとする結論をまとめた。辞書に載っている400近い単語が羽島の方言と一致し、中でも「かもめ」をゴンザが「かぐめ」と訳していたことで、同じ言い方をする羽島を「出身地」と結論づけた。ただ、「羽島の近くに、当時薩摩藩の港だった久見崎がある。ゴンザ父子はそこにいたかもしれない」と種子田さん。確定的な証拠はない。

 種子田さんは2013年にもロシアを訪問し、カムチャッカからサンクトペテルブルクまでゴンザがたどった道をたどった。眼前で父を殺害されたゴンザ。種子田さんは、「女帝に『素晴らしい』と言わしめたゴンザのロシア語は、未知の大地で生き抜くために文字通り必死で身につけたのだろう」と思いをはせる。

【写真:ゴンザがペテルブルクで書いたとみられる、自身に関する記述。丁寧な筆遣いが印象的だ(種子田さん提供)】

 生き抜くために言葉を覚える――。種子田さんは「今の時代に通じますよね。外国から働きに来た人が、懸命に日本語を学ぶ。ゴンザほどの状況ではないですが、地域社会の国際化が進む中で、その苦労を私たちも想像しなければいけないと思うんです」

 ゴンザ顕彰会はサンクトペテルブルクで研究機関を当たり、ゴンザが埋葬されたとみられる墓地跡を特定。ゴンザの御霊として石を持ち帰った。その石は、いちき串木野市の羽島崎神社に納められている。

 東シナ海から強い風が吹き付けるほこらの横に、ゴンザの石像が建っている。クンストカメラの首像とは異なるその表情はまっすぐ前を見つめ、力強い。高い語学力を示したゴンザはここで「学問の神」としてまつられている。

【写真:羽島崎神社境内のゴンザ神社のほこら隣にあるゴンザの石像。彼をたたえる人たちの思いが込められている】

 余談だが、スマートフォンの「グーグルマップ」で、いちき串木野市からサンクトペテルブルクまでの「徒歩」による経路を知ることができる。日本国内では陸路、しかもサハリンを経由するのでゴンザの足跡に比べると格段に近道だが、その距離は1万1820キロ、一切の休憩なしで歩き続けたとして所用時間は88日に及ぶ。過酷な運命と、それを切り開くゴンザの覚悟はいかほどだっただろうか。

【写真:ゴンザ神社があるいちき串木野市からサンクトペテルブルクまでの徒歩経路をグーグルマップで調べてみると、カムチャッカ経由ではないが1万1820キロの道のりが示された】

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 「ふつつか者ですがよろしくお願いいたします。四方山話、していきます」

 サンクトペテルブルクの各所を案内するバスに、ガイドのクラーエフ・バシーリーさん(57)のよどみない日本語が流れる。レニングラード国立バレエ団のバイオリニストでもあり、公演で訪れた日本が気に入り、日本語を学んだ。「サンクトペテルブルク大学、日本っぽく言うと『ペテ大』、ここの東洋学部で勉強しました」

【写真:バイオリニストでもある日本語ガイドのバシーリーさん】

 4匹いる飼い猫の1匹に、指揮者・小澤征爾さんから取ったという「オザワ」という名前を付けているバシーリーさん。サンクトペテルブルクに20人ほどいるという日本語ガイドの講師も勤めているという。「もっと、日本人にペテルブルクに来てほしいと思います。この街の良いところを、もっと伝えたい」

 サンクトペテルブルク工科大の学生、ポリーナ・コピーキナさん(18)は幼いころから見ていた宮崎駿監督のアニメ映画作品から日本語に関心を持ち、半年ほど前に大学の特別コースで日本語を学びはじめた。「漢字、難しいです」と話すが、将来は「日本とロシアで、エンジニアとして働きたい」と夢を語る。

【写真:日本語を学び始めたばかりのコピーキナさん】

 1733年にサンクトペテルブルクにたどりついたゴンザは当時15歳。3年後には日本語教師として活動を始めた。18歳で著した教科書「日本語会話入門」の序文には、ゴンザの思いが込められている。

サカシカ ワラベナンド

けなげな わらべたちよ

 

キヤイ ナラウフト

来なさい 習う人よ

 

ナラウェ ニフォンノコトベ

習いなさい 日本の言葉に

 

フォドケ コナッタチ アケヤロ

神仏は こなたたちを 開明になさろう

 

シショタチ コナッタチヲ スカユ

師匠たちは こなたたちを 好かれよう

 

ベチナタ フォメラユ

別な人たちは ほめてくれよう

 

ワガマイェカラ ウイェシガロ

自分自身は うれしくなろう

 

ファジマヤ シンドカアル

始まりは 辛労であろう

 

ナカ アロ カル

途中は 軽くもあろう

 

サキャ ヨカフト オモシトゥシチ

最後は 仲良しもあり 面白くなろう
※上村忠昌さん著「薩摩漂流船とゴンザ」より

 ゴンザが女帝アンナに拝謁したという「夏の宮殿」を案内してくれたガイドのイリーナ・ナターリアさん(49)は、川端康成、国木田独歩らの作品から日本語に触れ、サンクトペテルブルク大で日本語を専攻、学生時代には埼玉大にも留学した。「好きな日本語は『かえる』です。かわいいからです。そしてリャグーシュカ(ロシア語でカエル)は、お金のシンボルなんですよ。あと、日本にいつか『帰る』にもなりますね」

【写真:夏の宮殿を案内するナターリアさん】

 国際交流基金の調査によると、2015年度にロシアの日本語教師は約480人、日本語学習者は約8500人。ナターリアさんもゴンザのことを知っていた。ロシアの日本語教育のはじまりが、この街だということをどう思うかを尋ねると、こう答えた。

 「それは私たちの誇り、ですね」

 ゴンザがまいた種は、枯れることなくすくすくと育っている。

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