命の大切さ訴えた特攻隊長 豊前市出身の旧陸軍・岩本益臣大尉

西日本新聞 北九州版

 戦争中、戦闘機で体当たり攻撃をする特攻に反対しながら、旧日本陸軍最初の特攻隊「万朶隊(ばんだたい)」の隊長になり、特攻直前に戦死した岩本益臣(ますみ)大尉は豊前市大河内の出身だ。市内の戦争の企画展などで取り上げられているものの、郷土史家などは「戦時中に軍の命令に背いてまでも命の大切さなどを訴えた人物。もっと多くの人に知ってほしい」と呼び掛ける。

 岩本大尉はどういう人物だったのか。豊前市史などによると、1917年10月に生まれ、旧制築上中学を卒業した。陸軍航空士官学校などを経て、満州白城子陸軍飛行学校で航法を学んだ後、25歳で茨城県の鉾田陸軍飛行学校の教官に就任。操縦のエキスパートだった。

 体当たり攻撃は人材と航空機の取り返しのつかない損失と考え、超低空で目標に接近し、爆弾を1度海面に落とし、跳ね上がらせて命中させる跳飛(ちょうひ)爆撃を研究、推進した。しかし、44年10月には、操縦技術の高さから万朶隊の隊長に任命された。出撃前の同年11月、フィリピンで移動中に米軍機に追撃され、27歳で戦死。大尉から少佐へと昇進した。

 万朶隊の隊員の証言によると、岩本大尉は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」と隊員に指示。上層部の許可がないまま、爆弾を投下できないようになっていた飛行機を投下できるように改装した。そのおかげで、この隊員は何度も出撃したが、生還できたという。

 市文化財保護審議会の前会長、尾座本雅光さん(73)は「岩本大尉は軍人だけに死を恐れていたのではなく、命を大切にしたいとの思いと軍事的な成果を計算した上での判断だった」と指摘する。

 市は2013年、岩本大尉の関係者から遺品24点の寄贈を受けた。過去3回、市立埋蔵文化財センター(同市八屋)で公開。今年も9月29日まで、「まいぶん夏のトピック展『伝えていくもの~戦争の記憶~』」として、元特攻隊員で語り部として活動をしている豊前市在住の末吉初男さん(92)の資料や、行橋市と築上町から借りた戦時資料とともに展示、紹介している。

 ただ、訪れる人はまばらだ。同センターに勤務する市教育委員会生涯学習課の坂梨祐子副主幹は「遺品や史料は、特攻とは何だったかを問いかけている。多くの人に見てもらい、平和を考えるきっかけにしてほしい」と話す。

 求菩提山麓にある岩本大尉の生家は、戦前の時代劇スター大河内伝次郎の生家そばにある。今は誰も住んでいないものの、庭などはきれいに手入れされていた。

 生家近くに住む親類の男性(75)は「益臣さんと会ったことはないが、母から益臣さんが飛行機で自宅の上空を回ったと聞いた。戦場に向かうお別れだったのではないか」と語り、岩本大尉の生家の庭や墓の掃除などを続けている。

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