無らい県運動を省みよ 前田 隆夫

西日本新聞 オピニオン面

 この夏、ハンセン病家族訴訟原告団長の林力さんは、自宅がある福岡市と東京を何度も往復した。

 6月28日、熊本地裁で勝訴判決。被告の国が控訴しないよう国会議員に働き掛け、集会、記者会見を重ねた。もうすぐ95歳。「東京はこれが最後」と笑っていたが、体にはかなりの負担だったと思う。

 労苦は報われた。国は患者家族が受けた差別被害の責任を認め、安倍晋三首相は原告の手を握って謝罪した。

 林さんの視線は次の課題に移っている。ハンセン病への偏見や差別をなくす教育と啓発だ。首相に直接要請した。

 その実行は国だけでなく、地方自治体の責務でもある。

 戦前から戦後にかけて、国は「無らい県運動」を推し進めた。文字通り、らい(ハンセン病)を地域から一掃するために、患者を見つけ次第、療養所に送り込む。患者狩りと呼ばれた強制収容。実行者は自治体だった。

 林さんの著書「父からの手紙 再び『癩(らい)者』の息子として」(草風館)に、その一端がうかがえる資料がある。1945年10月の福岡県の事務引き継ぎ書「癩予防ニ関スル件」。引用して要約する。

 <らい予防に関しては従来特段の注意を払い、目下全国第2位の無らい県の面目を維持している>

 <毎月5、6人の新患者が発生したが、その都度、熊本県の国立療養所に収容し、私宅療養の患者は県下7人という好成績を挙げつつある>

 患者を地域から排除することを誇るような記述。無理やり引き裂かれた家族のことなど、恐らく眼中にない。

 林さんの父親は無らい県運動中の1937(昭和12)年に療養所に入った。やがて、家に白い防疫服の一団が土足で上がり込み、真っ白になるまで消毒剤をまき、出入り禁止の荒縄を張った。近所への見せしめのような仕打ちに遭い、林さんは母親と転居を余儀なくされた。

 無らい県運動は患者、家族と地域とを断絶し、ハンセン病への誤解、偏見、差別を助長した。今も古里に帰れない元患者、家族訴訟で名前を明かせない原告が多数いることを考えれば、あまりに罪深い。

 なのに、無らい県運動を省みる自治体は極めて少ない。熊本県や鳥取県は検証結果をまとめたが、福岡県に動きはない。家族訴訟判決を当事者として受け止めた知事、市町村長がどれだけいるだろう。

 「らい予防法廃止(1996年)の後も教育、啓発は無策だった。これから学校や社会教育の場でどう取り組むだろうか」。林さんは静かに見守る。 (佐世保支局長)

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