佐賀の撃墜王の戦後 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面

 夏の甲子園で佐賀商が優勝した1994年のこと。私は坂井三郎さんを東京・巣鴨の自宅に訪ねた。

 坂井さんは佐賀市出身で、撃墜王として世界にその名を知られた元海軍のゼロ戦パイロット。前から話を聞きたかったが、郷土の後輩の殊勲は取材する好機だと思った。

 この時、78歳。「大空のサムライ」の異名通り、坂井さんは独特の張り詰めたオーラを放っていたが、佐賀商の話になると、頰は緩んだ。

 「最近は九州の若者も粘りがなくなって、打算的な面が目立つと思ってましたが、佐賀商の優勝はそんな不安を吹き飛ばしてくれました。九州人の魂のDNAが健在であることを示してくれました」

 そしてこんな話をした。

 山手線の電車に乗っていたある日。若者たちが戦争の話をしている。「日本が戦ったのはアメリカだったかなあ」「そんなわけないじゃん」

 坂井さんは驚きで手がわなわな震え、電車を降りた。ホームで、たばこの煙を吸い込む。震えは収まらない。大勢の戦友の犠牲は何だったかという無念と一緒に、ニューギニアの空に消えた福岡県飯塚市出身の部下の顔が浮かぶ。朗らかでバナナのたたき売りのまねがうまかった。電車の若者と似た年ではないか-。

 坂井さんは貧しい農家に育ち、父は6人の子を残して病死した。東京の親族に引き取られたが、都会の中学の授業に付いていけず、「ぐれて」退学。失意で帰郷した時、母親から「戦争なら敗残兵だ。この悔しさ、男なら思い知れ」と一喝された。そして入った海軍で、懸命に勉強して戦闘機乗りに採用された、たたき上げだった。

 坂井さんを取材した当時、外国人記者クラブで講演した際の発言内容が物議をかもし時の人となっていた。昭和天皇の戦争責任について質問され「最高指揮官には最高の栄誉が与えられると同時に、最高の責任がある」と言い切ったのだ。警視庁が右翼の反応を心配して警備を申し入れてきたが、断ったという。

 戦争中の体験を本に書き、映画やドキュメンタリーになった坂井さん。しかしOBの集まりでは末端の兵卒上がりにすぎない。軍隊の硬直した体質を批判したことが元将校から白眼視された。むしろ歓待してくれたのは、かつて戦った連合軍側の人々だった。

 坂井さんの家には、インクが切れたボールペンの束がいくつもあった。本の執筆を終えるたびに戦友の霊に供えて「また、おまえたちの無念を書いたよ」と語り掛けた。

 2000年9月22日死去。84歳だった。 (編集委員)

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