空襲乗り越え 産業を支え みずほ銀久留米支店開業100年

西日本新聞 筑後版

 みずほ銀行久留米支店(久留米市日吉町)は、前身の第一銀行久留米支店開業から、今年100周年を迎える。移転により大正末期に建造された社屋は築93年。久留米空襲でも焼け残り、現存する数少ない建物で、いまも現役で使用されている。戦前戦後の久留米と歩みをともにした歴史をたどる。

 第一銀行は1919年11月、国鉄久留米駅前から東に延びる通称・問屋街(現在の中央通り)に支店を開いた。通りには農作業着や日常着として重宝された久留米絣を扱う呉服商や、繊維卸が軒を連ねた。つちやたび(現・ムーンスター)が足袋製造を始めた創業の地も同じ通りで、繊維産業が隆盛を迎えた頃だ。

 支店は7年後の26年、約300メートル南に移転し、社屋を新築。これが現存している支店だ。この時期は地下足袋に始まるゴム工業の黎明期。周囲には、アサヒシューズやタイヤ大手ブリヂストンのルーツに当たる「志まや」の足袋製造工場があった。さらにブリヂストン創業者、石橋正二郎氏の著書には、移転場所は生家の一部を売った後の土地だという記述がある。

 100周年を機に歴史を調べた山口大祐支店長は「支店は久留米の産業の変化を間近で見つめてきた」と感慨深げに語る。

 社屋は地上2階、地下1階建て。第一銀行本店など数多くの銀行建築を手掛けた西村好時氏の設計で、新築記念資料には「鉄骨鉄筋コンクリート造にして絶対耐震耐火を主眼とす」とある。山口支店長は「完成3年前の関東大震災を教訓にしたのではないか」と推測する。

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 昭和に入り、久留米は陸軍司令部など多数の関連施設を擁し、「軍都」の色合いを強めた。戦時期にはゴム産業も軍需向けが中心となり、図らずも「九州の軍事産業都市」(米軍作戦資料)として米軍の攻撃目標に選ばれることになる。

 市街地の6~7割を焼失した1945年8月11日の久留米空襲。市文化財保護課の小沢太郎さん(50)によると、米軍の空襲計画では、支店がある「本町交差点」付近を爆撃中心点に設定し、狙いを定めた。小沢さんは「周りは、一面焼け野原。残ったのは支店を含め、ほぼコンクリート造りの建物だけだった」。戦火をくぐりぬけることができたのは堅牢な造りのおかげだったのだろう。

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 支店では今月下旬、100周年に合わせて小学生を対象に学習会を開いた。銀行建築に特徴的な自然光を取り込む吹き抜けや営業フロアを望む2階の回廊、地下金庫などを見て回った。

 久留米空襲についても時間を割いた。かつて支店の東側に接した大通りは、焼け野原となり、西側に現在の市道(通称・三本松通り)が復興道路として整備された。山口支店長は「三本松通りに背を向け、東側の駐車場に玄関があるのは当時の名残です」と説明。佐賀県鳥栖市から参加した弥生が丘小6年の甲口奏太くん(12)は「おばあちゃんの家が久留米だけど、空襲のことは知らなくてびっくりした」と目を丸くした。

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 みずほ銀行久留米支店は今月から1階ロビーに、100年の歩みを紹介するパネル(縦1メートル、横2メートル)を設置。世情を記した年表に合わせ、保管していた資料や市提供の写真を使って、支店周辺のにぎわいや、1953年の筑後川大水害(二十八水)での被害も伝えている。窓口の営業時間(午前9時~午後3時)であれば、自由に見ることができる。

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