「シベリアへ、行たっみろかい」 28歳記者、3世代の慰霊の旅で考えた

西日本新聞

記者の大伯父、山中勇さん 拡大

記者の大伯父、山中勇さん

 いつかは自分の足で、その地を踏みたい-。10年来の思いがようやくかなった。私はこの夏、ロシア極東ウラジオストクとハバロフスクを母と祖母の3人で旅した。目的は戦後のシベリア抑留で亡くなった祖父の兄、大伯父の慰霊だ。大伯父は1946年1月8日、故郷・宮崎県都城市へ望郷の念を抱きながら、極寒の地で生涯を閉じた。24歳で亡くなった大伯父の命日が判明したのは2009年。当時、高校生だった私は「戦後60余年がたつのに、命日さえ分かっていなかったのか」とショックを受けた。現地で大伯父に手を合わせたい。都城に暮らす75歳の祖母を慰霊の旅に誘うと、一瞬ためらいつつも力強く答えた。「シベリアへ、行たっみろかい」(=都城弁で「行ってみようか」)

「最も美しい街」と無人の慰霊公園

 福岡空港を出発し、乗り継いだ成田からは、わずか2時間半。着陸体勢に入った飛行機から見下ろすと、森と沼地に覆われた広大なウラジオストクの町が見えてきた。3泊4日の日程で、2日目にシベリア鉄道の寝台に乗りハバロフスクへ。ハバロフスク市内にある慰霊碑と日本人墓地を目指した。

【写真:ウラジオストクの街並み】

 

 整備された道路の脇に街路樹と植木、手入れの行き届いた花々が並ぶ。8月でも湿度は高くなく、アムール川から吹き付ける風が心地よい。故・山崎豊子さんの小説「不毛地帯」のタイトルから、草も生えない土地をイメージしていたが、色彩豊かな風景に目を奪われた。

 「ハバロフスクは、ロシア国内で『最も美しい街』に選ばれており、最高額紙幣5千ルーブルにも描かれています」と通訳のボガトワ・ダーリアさん(35)。市街地には旧ソ連時代の重厚な建物が多く残り、抑留者たちが建設したビルも、公務員大学校などに用途を変えて今も使われているという。

 シベリア抑留と言っても、実際の強制移送の地は中央アジアやモンゴルなどユーラシア大陸の全体におよび、収容所は約2千カ所あったとされる。ただ、市民が現在立ち入ることのできる墓地や慰霊の場は多くはない。

 その中で最大の面積を誇るのが、ハバロフスク市の郊外にある「日本人死亡者慰霊碑」だ。れんがでできたモニュメントは幅10メートル、高さ5メートル。アーチ状の入り口を進むと、中には円形の中庭がある。久留米市出身の建築家・故菊竹清訓氏の設計で、戦後50年がたった1995年に日本政府が建立したものだ。

【写真:ハバロフスク市の郊外にある「日本人死亡者慰霊碑」】

 

 入り口に書かれた「平和慰霊公苑」の字は、小説不毛地帯のモデルになった大本営参謀で、シベリア抑留を経験し、後に財界の重鎮となる瀬島龍三氏(2007年に95歳で死去)が揮毫(きごう)したという。周囲は公園になっており木花が茂っているが、交通の便が悪いためか私たち以外に来訪者はいなかった。

 公園内にある碑文の一つには日本語でこう書かれていた。「シベリアの荒野に無残にも散華されし戦友に対し誰一人として一本の花一本の香も捧げる者もなく無念の戦死を遂げられし戦友の御霊を安かれと祈願して(略)慰霊の碑を建立いたします」

 ソ連側から抑留者死亡者名簿など関連記録が提供されたのは1991年。それまでの長い間、誰からも弔われることのなかった先人たちを思うと、やりきれない気持ちになった。

間違っていた命日

 「1946年1月8日 本日、チタ州ハプチェランガ村収容所第7支部にて、戦争捕虜ヤマナカ・イサム 日本人兵が死亡。死因は発疹チフス」

 厚生労働省から突然、手書きの封書が届いたのは2009年2月だった。ロシア語で書かれた大伯父・山中勇の死亡証明書など7枚が入っていた。死亡した日時や場所、死因などが詳細に記され、一部翻訳付き。当時の上官や担当した医師のサインもあった。

【写真:ロシア語で書かれた死亡診断書】

 これまでわが家では、1946年3月17日が大伯父の命日とされてきた。戦後まもなくシベリアの地でこの日に亡くなったと、大伯父の母(私にとっては曽祖母)がどこからか聞かされていたようだ。曽祖母は息子の本当の命日を知らぬまま1976年に他界していた。

 1991年生まれの私は、大伯父はもちろん曽祖母とも直接話をしたことはない。ただ、幼い頃から祖父母に親族がシベリア抑留で亡くなったことは聞かされていたし、毎年盆にお参りする納骨堂には、大伯父の名前と命日、そして享年24歳と刻まれていた。そこに彫られた文字を見て、南国・宮崎育ちの大伯父が、1月には気温がマイナス40度にもなるシベリアの地で、どんな思いで最期を遂げたのか。想像するだけで胸にこみ上げてくるものがあった。

宮崎県の天気予報

PR

PR

注目のテーマ