困窮する中国残留邦人2世 もう一つの母国で 就労不安定なまま高齢化 生活保護6割 広がる署名活動

西日本新聞 くらし面

 日本に永住帰国した中国残留邦人の支援に関する法律(支援法)を、2世にも適用するよう求める署名活動が、九州で少しずつ広がっている。高齢の親のために30~50代で日本に移り住んだものの、言葉の壁で安定した職に就けないまま高齢化し、困窮する2世は多い。6割が生活保護を受けているとの民間調査もあり、「日本の戦後政策が生んだ問題だ」として国の責任を指摘する専門家もいる。

 今年3月に発足した「長崎県中国帰国者二世の会」代表の宮崎一也さん(66)は、亡き母、菊子さんが残留孤児で、「戦争が残した2世の苦しさを忘れてほしくない」と訴える。

 菊子さんは旧満州(中国東北部)で暮らしていたが、敗戦時の逃避行中、母は爆弾で死亡。2人の姉と妹は兵士に暴行された後、行方不明になった。9歳で身寄りがなくなり、中国人の養父母に育てられた。18歳で中国人男性と結婚。宮崎さんら5人の子に恵まれた。日本の歌謡曲を口ずさみ「帰りたい」と何度も漏らした菊子さんは、長崎に身元引受人が見つかり、1994年に帰国した。

 宮崎さんは中国で警察官、妻は商店を営んでいた。脳梗塞の後遺症で体が不自由になった菊子さんに懇願され、「孝行を尽くしたい」と98年に45歳で日本に永住。3年後に菊子さんは65歳で病死したが、既に中国に仕事も家もなく、子どもたちも学校に通い始めており、日本にとどまった。

 日本語が分からず、造船会社の塗装や清掃などのアルバイトで生計を立てたが、病が重なり2001年頃に退職。清掃会社に勤めた妻も体調を崩した。国民年金だけでは暮らせず、生活保護を受けている。

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 敗戦後の1949年、日本政府は中国との国交断絶で、引き揚げ事業を中断。再開後の59年には、生存が不確実な残留邦人への「戦時死亡宣告」で戸籍を抹消し、死亡扱いした邦人の調査を打ち切った。72年に日中国交が正常化、81年から残留孤児による訪日調査が始まった後も、政府は身元引受人の確保を条件にしたり、配偶者と未成年で未婚の子しか国費での渡航を認めなかったりと制限を設け、帰国や家族の呼び寄せが遅れた。

 帰国者は「国が早期帰国実現と自立支援の義務を怠ったことで、日本人として人間らしく生きる権利を侵害された」として、2002~06年に全国15地裁で国家賠償請求訴訟を起こした。06年に神戸地裁で原告が勝訴したことを受け、議員立法で支援法が成立。満額の年金や支援給付などの経済的支援を受けられるようになった。13年の法改正で配偶者も対象になった。

 だが呼び寄せで永住した2世は対象外だ。残留邦人問題を所管する厚生労働省は「1世のように長期の残留を余儀なくされたという特別な事情があるとはいえない」との立場を取る。

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 九州地区中国帰国者二世連絡会が2世210人に聞いた17年の調査では、6割の127人が生活保護を受給。九州弁護士会連合会の13年の調査では、回答した77人のうち37人が日本語の会話が「あまりできない」「ほとんどできない」とした。連絡会は経済的支援や日本語学習の支援、病院への通訳派遣を国に求める署名活動を昨年3月から展開。1万筆を超えたという。

 2世の問題に詳しい神戸大大学院の浅野慎一教授(社会環境論)によると、1世の帰国のピークは80年代後半~90年代で、2世の多くは90年代以降に永住した。「2世の日本での定住が遅れたのは本人たちの意思ではない。1世と同様に日本の戦後政策の犠牲者だ」と指摘。一方で子どものときに移り住んだ2世もおり、2世間で日本語能力や就労状況に差があることから「一律ではなく、帰国時の年齢や生活実態に応じた支援策を講じるべきだ」とする。

 連絡会会長の小島北天さん(71)=福岡県志免町=は「中国で日本人として扱われ、日本でも社会の狭いところで生き、努力しても調和できない。2世のきつい、厳しいを分かってほしい」と孤立感を訴える。「もう一つの母国」に生きる2世たちは、暮らしの基盤が揺らいだまま老いを迎えている。

【ワードBOX】中国残留邦人

 第2次世界大戦中に開拓団などとして中国東北部(旧満州)に居住し、1945年の敗戦時の混乱で肉親を失い、日本に引き揚げることができず戦後も中国に残った人たち。敗戦時に13歳未満だった身元不明の子どもは残留孤児、13歳以上の女性は残留婦人と呼ばれる。厚生労働省によると、日本に永住帰国した中国残留邦人は6724人で、うち孤児は2557人(今年7月末)。厚労省は日本に移り住んだ2世の数は把握していない。

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