戦後の日比、十字架の縁 対日感情好転のきっかけに 小倉メモリアルクロス

西日本新聞 社会面 内田 完爾

北九州市小倉北区の足立山中腹に立つメモリアルクロス 拡大

北九州市小倉北区の足立山中腹に立つメモリアルクロス

安東邦昭さん

 北九州市小倉北区の山中に、巨大な十字架がそびえ、平和な海を見守っている。高さ約20メートルある十字架は「小倉メモリアルクロス」と呼ばれる。朝鮮戦争の戦没者を慰霊するため、1951年に米軍が建設したものだが、実は太平洋戦争で被害を受けたフィリピンと日本との「和解」に一役買ったという。この知られざる歴史を調べたのは、元北九州YMCA(キリスト教青年会)総主事の安東邦昭さん(75)=同市小倉南区。「後世に記憶を伝えたい」と、調査結果の執筆に取り組んでいる。

 安東さんは北九州YMCAに約30年勤務。北九州のYMCAの歴史を調べる中で、メモリアルクロスの秘史を知った。

 朝鮮戦争で北九州は、駐留や補給の拠点だった。そして戦死した米兵の遺体が、戦場から戻る地でもあった。安東さんによると、多くのYMCAの学生たちが遺体処理に従事。心を痛めた学生たちは、朝鮮半島の方角を向いた碑の建設を米軍に呼び掛けたという。

 この十字架が日比の「和解」につながる。太平洋戦争で激戦が展開されたフィリピンでは旧日本軍による残虐行為があり、多くの戦犯が収容された。その中には、死刑宣告を受けていた小倉出身の若者もいた。

 家族は小倉で助命・減刑の嘆願運動を展開。対日感情を好転させようと、小倉YMCA(当時)などが中心に53年、フィリピンから観光団を呼ぶことにつながった。メモリアルクロスは、現地を見学した観光団に驚きと感動をもたらした。このメモリアルクロスと観光団の記念写真を見たのが、当時フィリピン大統領だったエルピディオ・キリノ氏(故人)だった。

 キリノ氏は妻や子を日本軍に奪われたが、日本との国交回復に取り組む姿勢をみせた。熱心なカトリック教徒であり、苦悩の中で「隣人に対する否定的な精神を、永遠に持ち続けるわけにはいきません」と述べたという。53年、自身の信仰や日本との関係を考慮して戦犯に恩赦を決断。小倉に2人が帰還した。

 キリノ氏は恩赦の決断後、訪日観光団からの帰国報告を受けた。キリノ氏が記念写真を見たと現地の新聞が報じると、「日本にも十字架が建つまでになった」と驚きが広がった。

 安東さんは執筆中の原稿に「戦後の分断を超えんと」と仮題をつけた。「キリノ氏は『裁きと赦(ゆる)し』の間で葛藤があっただろう。戦没者を慰霊するメモリアルクロスの写真が、戦後の分断を乗りこえようと下した自らの判断の正しさに確信を持ったに違いない」と話した。 (内田完爾)

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