宗像大社大宮司家「謎の人物」へ秀吉が書状 熊本の子孫宅で発見

西日本新聞 小川 祥平

豊臣秀吉の花押が付された判物。左端に「宗像才鶴」と宛名が書かれている 拡大

豊臣秀吉の花押が付された判物。左端に「宗像才鶴」と宛名が書かれている

 世界文化遺産の宗像大社(福岡県宗像市)大宮司家の中で「謎の人物」とされてきた宗像才鶴宛ての豊臣秀吉の文書が発見された。熊本県多良木町が18日、寄贈された史料に含まれていたと発表した。才鶴は、最後の大宮司で戦国武将の宗像氏貞(1545~86)の後室(後妻)とされるが、史料に乏しく「不明とせざるをえない」(宗像市史)人物。初めて才鶴宛ての文書が見つかり、専門家は「秀吉が才鶴を氏貞の後継者で直接の家臣と見ていたことが分かる貴重な史料」と評価する。

 文書は同町に7月に寄贈されたのを九州大比較社会文化研究院の花岡興史・学術研究者(日本史学)が確認。一つは、島津氏の北上を防いだ武功をたたえ、現在の知行を保証する判物。10月10日付で、九州平定前の天正14(1586)年と推察される。もう一通は、その後に送られたとみられる朱印状(3月28日付)。才鶴が軍法に不案内であることから、兵を出す際は浅野長政に相談するように指南している。

 九州平定後、宗像氏の所領は小早川隆景が支配。大宮司家は氏貞をもって途絶え、一族は離散した。氏貞の娘は隆景の家臣に嫁ぎ、氏貞後室とされる人物により相伝の文書は家臣側に渡っている。

 後世に書かれた「訂正宗像大宮司系譜」は、氏貞の別の娘が毛利家の家臣と結婚し、家臣は宗像清兵衛として熊本に移ったとし、熊本の細川藩史料にも同様の記述がある。今回の文書は、多良木町にある清兵衛の子孫宅で発見され、その記述を裏付ける形となった。

 花岡研究者は「大宮司家は途絶えたが、そこにつながる一族が宗像の名を守り熊本で続いていたことが立証された」と話す。新修宗像市史編集委員会中世部会長の桑田和明さんは「才鶴が秀吉から認められていることが分かり、後室である可能性がより高まった」と評価した。(小川祥平)

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【ワードBOX】宗像才鶴

 謎の人物で、宗像氏側の史料に一切登場せず、読み方も分かっていない。「毛利家文書」には豊臣秀吉が「才鶴」に知行を与えたとする文書があり、宗像氏側の史料では「氏貞後室」に所領が与えられたとの記述がある。この二つの史料を結び付け、才鶴を氏貞の後室とみる説が有力となっている。


 

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