平野啓一郎 「本心」 連載第15回 第二章 告白

西日本新聞 文化面

 自転車や電車で物を運ぶこともあれば、依頼者が行けないような遠い場所、危険な場所に行くこともある。何かのリサーチを頼まれることもあったし、旅行の代理を頼まれることもある。時間がなくて、行ってきたことにしたい人、行きたいが、病身で行けない人――若松さんのように――というのは、少なからずいるのだった。僕が旅先で撮影した写真を、自分が撮ってきたものとしてネットにアップするのは、依頼者の自由だ。それについては、こちらに守秘義務がある。

 若松さんは、「人間ドローンですか?」と笑って言ったが、ふしぎと嫌味(いやみ)がなかった。

「ええ、飛べませんけど。基本的には、依頼者の指示通りに動きますし、遠隔で操作するだけでなく、僕の体と一体化して活動したい、現地を体験したいという方も多いです。外国からの依頼者もいます。」

 禁止事項であり、僕は決して応じないが、風俗店に行ってほしいという依頼も、珍しくはなかった。

 同僚の中には、裏で追加料金を受け取って、楽しみながらその代行を引き受けている男もいる。――しかし、若松さんには、そんな話まではしなかった。

 仕事中は、依頼者の体になりきっているが、珍しい、面白い体験もあるし、行ったことのない場所に行って、現地で多少、自分の時間を持てることもある。僕は必ずしも、嫌いな仕事ではなかった。

 若松さんは、長年、小樽に住んでいたが、今は僕が訪れた小田原(おだわら)の施設に入っている。

 死ぬ前に――と彼自身ははっきりと言った――どうしても、昔住んでいた小樽の家を見たい、そのあと、家族でよく足を運んだ、町の外れの断崖に建つホテルから海を眺めたい、というのだった。

 承諾すると、彼は握手を求めた。木の棒がスッと持ち上がるような動作だったが、長く入院している人らしく、掌(てのひら)の皮には繊細なやわらかさがあった。埋もれていた彼のまだ少年だった頃が、肉が落ちて露(あら)わになったかのような感触だった。

 死が近づくと、人の思念の中では、過去の川が、一筋の流れであることを止(や)めて、氾濫してしまうのかもしれない。堰(せき)を切ったように、誕生から現在までの存在の全体が、体の中に満ちて来る。肉体には、その隅々に至るまで、懐かしさの気配が立ち籠(こ)める。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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