二列目の人生の輝き 岩田 直仁

西日本新聞 オピニオン面 岩田 直仁

 小説「変身」で知られるフランツ・カフカは生前、ほとんど無名だった。出版した本は数冊で、どれも薄い。まとめても単行本1冊程度。死後に残された膨大な手稿やメモを友人が編集し、「城」や「審判」となった。不条理な作品世界は、今も多くの作家に影響を与え続ける。

 カフカの新訳小説全集や評伝を手掛けた池内紀(おさむ)さんの訃報が届いた。ドイツ文学の翻訳と研究に多くの仕事を残した。山や温泉を巡る手だれのエッセイストでもあった。

 難しい言葉を避け、短文を連ねた文章は、軽やかで親しみやすい。上品なユーモアに時折、鋭い風刺が交じる。

 何度か話を聞く機会があった。語り口はさらっとしていて、笑顔が人なつっこい。文は人なり。爽やかな風のような人だった。

 カフカの作品をゆがめた友人の過剰編集から九州の温泉の思い出まで、話題は縦横無尽。印象に残ったのは温泉地、由布院(大分県)の礎を築いた中谷巳次郎(みじろう)の話だった。

 巳次郎は加賀の裕福な家筋に生まれた。「道楽人」と呼ばれ、食や器、庭や建築などに「美」を追求し、資産を食いつぶしたという。流れ着いた別府(同)で、実業家の油屋熊八と出会う。大正時代、2人は要人を招く別荘を由布院に開く。巳次郎が別荘の細部にまで詰め込んだ美意識は、現代の名旅館「亀の井別荘」へと引き継がれている。

 この話は後に、著書「二列目の人生 隠れた異才たち」の一編にまとめられた。

 世評に一切こだわらず、「ほかに心を満たすことがあって、世才にまでまわらない」異才たちの立ち位置は、優等生や秀才が並ぶ一列目の後ろである。彼らは世渡りに心を砕かず、思うがままにわが道を歩んだ。池内さんが好んで取り上げたのはそんな二列目の人々が多かった。

 山とスキーを愛し、味わい深い画文集を残した自由人、辻まことの人生を追って、「見知らぬオトカム」を著した。エロチックで、どこか笑える膨大な詩を書いた知られざるドイツの女性詩人の評伝もある。世に出すあてもなく、大量の手稿を書き続けたサラリーマン作家、カフカも二列目の異才だろう。

 「流行も人の目も気にしない。独立独行、悪く言えば唯我独尊。そんな人が減った気がしますよ」。池内さんの柔らかい声が耳によみがえる。

 55歳で大学教授を辞し、カフカの翻訳に没頭した池内さんが似合うのも二列目だろう。晩年、自らの死に触れ、「風のようにいなくなるといいな」と書いた。享年78。 (論説委員)

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