平野啓一郎 「本心」 連載第21回 第二章 告白
僕は、駅から彼と一体化していたが、あの病床の老人も、若い頃はいつもここを上り下りしていたのだ、というようなことを、少し息を切らしながら考えた。
平日の白昼は、見慣れぬ余所者(よそもの)の闖入(ちんにゅう)に、ひっそりと息を凝らしていた。僕が実は、若松さんだと知れば、景色が一変するくらい驚かれるだろう。
あの老体を満たしていた幼少期の記憶が、今は僕の体に打ち寄せている。そして彼は、僕を通じて、懐かしい過去へと駆け出してゆくのだった。
教会はこぢんまりとして、ヨーロッパのゴチック建築のファサードを、一部分だけこっそり引き抜いて、持ち帰ってきたかのようで、シンボリックな八角小塔は、地元の人たちが、毛糸で編んだ帽子をちょんと被(かぶ)せてやったような風情だった。
街は既にして眼下に遠かった。若松さんの自宅は、そこから歩いて五分ほどだった。
二階建ての大きな洋風の家で、屋根はピアノの鍵盤のふたを、開きかけて、そのまま止めたようなかたちをしている。積雪対策だろう。
白い外壁の一角には、ダークブラウンの装飾が施されていて、建てられた時には、立派な、趣味の良い家だと評判せられたに違いない。僕自身は、ついぞ住んだことのないような家だった。
庭の大きな貝塚息吹(かいづかいぶき)はよく手入れされていて、玄関先には、子供用の自転車が二台、置かれている。
若松さんは、僕の耳元で頻(しき)りに、「ああ、……」と、懐かしそうな、言葉にならない声を漏らした。僕は、今の居住者に、中を見せてもらう交渉をするかどうか、提案のメッセージを送ったが、「いえ、いいです。」という返事だった。
周辺をしばらく散歩し、小樽公園にまで足を延ばしたあと、無人タクシーを拾って、岸壁のホテルに移動した。僕の視界の映像は、若松さんの息子夫婦にもシェアされているようで、「お父さん、よかったね、家が見れて。ねえ?……」と何度も声を掛けるのが聞こえた。