平野啓一郎 「本心」 連載第24回 第二章 告白

西日本新聞 文化面

画・菅実花 拡大

画・菅実花

 若松さんは、また、「ああ、……」と嘆息を漏らしたきり、無言になった。その静寂の向こうで、僕は彼が泣いているのを感じ、モニターの小窓を見ないようにした。

 風が、潮でべたついた僕の額を涼しく撫(な)でた。恐らく僕の体は、若松さんの亡くなった妻の傍らに立っているのだった。 

 人生の最後に、思い出の場所の景色を見つめる目。――この空と海が、若松さんという一人の人間の瞳に像を結ぶことは、もう永遠にないのだった。

 そして、僕の目は、別のもう一人の目を、否応(いやおう)なく、引き寄せてしまった。――母の目を。

 

 あの日、帰宅した僕は生まれて初めて、母を酷(ひど)く責め、何かあったのなら話してほしいと詰め寄った。母は、「もう十分に生きたから。」と繰り返すばかりで、終(しま)いには、穏やかな、ほとんど冗談でも口にするような面持ちで、こう言った。

「何にも不満はないのよ。お母さん、今はすごく幸せなの。だからこそ、――だから、出来たらこのまま死にたいの。どんなに美味(おい)しいものでも、ずっとは食べ続けられないでしょう? あなたはまだ若いから、わからないでしょうけど、もうそろそろねって、自然に感じる年齢があるのよ。」

「違うよ、それはお母さんの本心じゃない。お母さんは、子供や若い世代に迷惑をかけないうちに、自分の人生にケジメをつけるべきだっていう世間の風潮に、そう思わされてるんだよ。お母さんの世代は、若い時からずっとお荷物扱いされてきたから! けど、長生きすることに、疚(やま)しさなんて感じなくていいんだよ! 僕にはまだ、お母さんが必要なんだよ。どうしてそんな悲しいこと言うの?」

「違うって。……違うのよ。これはお母さんが、自分の命について、自分で考えたことなのよ。お母さん自身の意思よ。」

「じゃあ、考え直して。僕のお願いだよ。そんなこと、……どうして?」

 正直に言えば、母でない赤の他人であるなら、僕はその考えを、理解し得たかもしれない。しかし、母がそうした心境に至るには、何らかの飛躍が必要なはずだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

PR

注目のテーマ