平野啓一郎 「本心」 連載第33回 第三章 再会

西日本新聞 文化面

画・菅実花 拡大

画・菅実花

 介添えなしで、視覚障害者向けのナビゲーション・アプリを使って町を歩いてみたいが、まだ不安なので、遠隔で見守っていてほしいというのだった。緊急の危険が迫っている時や、どうしても困った時には、指示を出してほしい、と。普段、僕が使用しているゴーグルを彼が装着するのだったが、それを介して、僕が彼の目になることに違いはなかった。
 
 数日前に、会社から打診を受けた僕は、最初、この話を断った。視覚障害者の介添えに関しては、何も専門的な知識を持っていないし、責任も負えなかった。けれども、報酬は通常よりも高く、万が一の場合は、アプリの会社が責任を負うことになっていた。

 会社は、何でも引き受けるので、ベテランの僕にこの仕事をさせたがっていた。

 同僚で、僕が唯一、気を許すことのできる岸谷(きしたに)――風俗店に行けと依頼されても、断ることなく内緒で引き受けるのは彼だった――は、
「やっとけよ。楽な仕事だろ? 俺たちもいつ怪我(けが)したり、病気になったりで、この仕事を続けられなくなるか、わかんないんだから。経験しておけば、何かで役に立つよ。やらないなら俺がやるからな。」

 と言った。

 岸谷は、頭の良い、腹の据わった男で、しかも、僕たちのような境遇の人間としては、奇跡的に傷みの少ない希望を保っていた。彼と語り合う度に、僕は、その言葉のどこか懐かしい、少年時代に、校庭の片隅で木陰に座り、木の棒で地面に絵を描きながら耳にしたような響きに、陶然とした心地になるのだった。

 彼を見ていると、頻発する台風が、まだ未熟なまま落としてしまった果実の中で、なぜか、いつまでも朽ちずに残っているふしぎな一個を目にしているような気持ちになった。何かの間違いで、今地面に転がっているこの固い桃は、明日にはまた、元の枝になっているのではあるまいか、と想像させるような。

 僕は、岸谷の忠言を容(い)れたが、会社にはせめて、側(そば)に付き添わせてほしいと言った。しかしその提案は、依頼者本人から、それでは訓練にならないと却下された。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

PR

注目のテーマ