平野啓一郎 「本心」 連載第34回 第三章 再会

西日本新聞 文化面

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画・菅実花

 結局、僕は注文通りに応じたものの、普段の仕事の方が遙(はる)かに楽だった。肉体的な負担と、精神的な負担とは、どちらが重いのだろうかと、不毛な設定の問いに、何度となく足をすくわれそうになった。

 二子玉川(ふたこたまがわ)から銀座(ぎんざ)に出て、買い物をして帰るまでの三時間の契約だった。ナビ・アプリはよく出来ていて、ほとんどの時間、僕はただ見ているだけだったが、怪我(けが)をさせてはならないという緊張と、干渉し過ぎてはならないという自制とで、狭い場所に閉じ込められているような窒息感があった。

 彼の中では、頻繁に往来する道は、白杖(はくじょう)が探り当てる足許(あしもと)の変化によって記憶されていくのだろう。僕は、地面の様々なテクスチャーがパッチワークのように構成する盲人の地図を想像した。音声ナビは、その集中力を邪魔しないのだろうか。

 白杖を持っていても、露骨に迷惑がる歩行者も少なからずいて、僕は依頼者にそれが見えないのを幸いと感じた。見えていないからこそ、わざと威嚇するようなポーズを取る者もあった。

 歩道に置かれた看板や自転車に対しては、ナビの指示も十分ではなかった。

 少し依頼者と会話をしたが、身寄りがなく、ボランティアのヘルパーも、人手不足で順番待ちなのだという。

 彼がこの日買ったのは、風鈴一つだけだった。どんな柄かと尋ねられたので、金魚と水草が描かれていて、濃い青で底に表現された水が涼しげだと説明した。

 彼は、
「中から見たら、この世界の全体が水槽みたいに感じられるでしょうね。」
 と言った。
 
 カンランシャに到着すると、顔認証を受けて、またあの応接室に案内された。

 中では野崎が、パソコンのモニターで、今日受け渡す“商品”の最終調整をしながら待っていた。VF(ヴァーチャル・フィギュア)の彼女を本物と勘違いした時の惨めな記憶が、しつけの悪い子犬のように、しきりに絡みついてきて、僕を困惑させた。
「暑いですね。どうぞ、そちらにおかけください。お飲み物は、何をご希望ですか? アイスコーヒー、炭酸水、……いろいろございますが。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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