取り壊し危機越え名所に 柳川市の白秋生家 復元50周年

西日本新聞 筑後版 森 竜太郎

復元直後の白秋生家(北原白秋生家・記念館提供) 拡大

復元直後の白秋生家(北原白秋生家・記念館提供)

復元前の白秋生家(1968年ごろ、北原白秋生家・記念館提供) 復元直後の白秋生家内部(北原白秋生家・記念館提供) 復元された白秋生家でテープカットする長男の北原隆太郎さん(右)(北原白秋生家・記念館提供) 俳優の森繁久弥さんが1989年9月1日に記帳した芳名録

 柳川市沖端町にある北原白秋(1885~1942)の生家が11月1日、1969年の復元から50周年を迎える。生家は父母ら北原家全員が12年に上京した後、持ち主が転々と変わり、老朽化もあって昭和40年代に取り壊しの話が持ち上がった。一転して復元にこぎ着けられたのは、市民と全国の白秋ファンの熱意があったからだ。

 北原家は代々、柳川藩御用達の海産物問屋で、白秋の時代には酒造業も営んでいた。生家は江戸末期から明治初期の建築とみられる。白秋が16歳だった01年3月に大火があり、母屋と倉一棟を残して全焼。北原家はこの痛手から立ち直ることができず、破産した。

 白秋は火災の3年後に中学伝習館(現伝習館高)を中退。上京して早稲田大学英文科予科に入学し、文学活動に傾倒する。北原白秋生家・記念館の高田杏子学芸員は「実家の没落で、ふるさとに帰りたくても帰れない。そんな思いは、白秋の詩作に大きな影響を与え、生涯を通じた柳川への思慕の情を深めたはずだ」と話す。

 北原家の上京後、人手に渡った生家は缶詰工場、つくだ煮工場などに使われた。白秋は絶筆となった「水の構図」(43年)で「我が生家は今、人手にわたりてとどろきし缶詰工場となりぬ」とつづり「泣かゆるに日は照り暑し湯気立てて 蟶(あげまき)を今釜に煮沸す」「三日三夜(みかみよ)さ炎あげつつ焼けたりし 酒倉の跡は言ひて見て居り」の歌を残している。

 68年、老朽化と所有者の意向で取り壊しされる可能性があると新聞が報道すると、市民と白秋ファンを中心に保存運動が起こり、市は県に文化財指定申請を行うとともに生家保存会を発足させた。筑後地区では街頭募金や小中学生の「小遣い募金」も行われ、全国的規模となった浄財は1年ほどで約3千万円に上った。市は生家を購入し、白秋の縁者の意見を聞きながら復元工事を行った。

 69年11月1日の開館式には白秋の長男、隆太郎さん(故人)も訪れてテープカット。当日の西日本新聞夕刊は「生家は見事に復元され、正面のナマコ壁は造り酒屋特有の黒の地色と真っ白のしっくいが幾何学模様を描き、土間には白秋が回想したように五つの朱塗りの酒だる、同じ色のマスが並べられている」などと報じた。

 85年には生家裏に白秋生誕100年事業で記念館をオープン。白秋の文学活動の足跡をつぶさにたどれるようになった。生家・記念館には半世紀で599万7547人(9月末現在)が訪れ、水郷柳川を代表する観光スポットとして全国に知られている。

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 生家・記念館には湯川秀樹さん、森繁久弥さん、永六輔さん、阿川弘之さん、瀬戸内寂聴さんなどの著名人も多く足を運び、芳名録に自筆の署名やメッセージが残る。11月2日の命日の前後に白秋をしのぶ「白秋祭」(1~3日)に合わせ、生家の50年などを振り返る特別展で芳名録を初公開する。生家・記念館=0944(73)8940。 (森竜太郎)

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