平野啓一郎 「本心」 連載第36回 第三章 再会

西日本新聞 文化面

 ソファに座ったまま、手を伸ばしてボタンを押すと、言われた通りに目を閉じた。

 無音になり、やがて遠くから、蝉(せみ)の鳴き声が聞こえてきた。僕は、それに驚いて、不用意に目を開いた。

 飛び込んできたのは、予期せぬ光景だった。

 母の姿がなかった。僕は、自宅のリヴィングにいて、ソファに、ぽつんと一人で座っていた。窓の外には、見慣れた三階からの景色が広がっている。空は、ここに来るまでと変わらず、その外側に宇宙の闇があることを忘れさせるほどに青く澄んでいた。

 視線を巡らせて、母を探そうとした。すると、キッチンで物音がした。食器棚の端に人影が見え、僕は思わず立ち上がった。

 <母>はそこに、僕に背を向けて立っていた。ブラウンに染めた髪も、歳(とし)を取って丸みを帯びた背中も、普段着にしていた紺のワンピースも、何もかもが同じだった。

「呼びかけてあげてください。」

 野崎の声が聞こえた。僕は、普段の仕事で、依頼者の指示を受けた時のような錯覚に陥った。それで、自宅は一層、現実感を増した。 

 けれども、僕は須臾(しばらく)の間、声が出なかった。野崎に見られているという意識もあったが、それだけではなかった。

 母への呼びかけ以外には、決して口にしたことのなかった「お母さん」という言葉を、母のニセモノに向けて発しようとする僕に対し、僕の体は、ほとんど詰難(きつなん)するように抵抗した。それによって、ニセモノになるのは、お前自身だと言わんばかりに。

 僕はさすがに死後の生を信じないが、もし僕が先に死んで、母が僕ではない誰か――何か――に、「朔也(さくや)」と呼びかけているのを目にしたならば、いたたまらないだろうと想像した。それはもう、僕の知っている母ではないと感じるだろうか?

 それでも、結局、僕は呼びかけたのだった。恐らくは、やはり野崎から見られていて、<母>から、待たれていると自覚したからこそ。

「――お母さん、……」

 それは、驚いたようにこちらを振り返った。――僕は股慄(こりつ)した。固唾(かたず)を呑(の)んで、その顔を打ち目守(まも)った。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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