平野啓一郎 「本心」 連載第37回 第三章 再会

西日本新聞 文化面

「ああ、朔也(さくや)、帰ってたの? おかえり。」
「……。」
「どうしたの、そんな顔して?」

 僕は、ダルマ落としのように、その場に崩れ落ちてしまった。何者かに、不意に、背骨を二、三個打ち抜かれたかのように。蹲(うずくま)って、僕は泣いた。涙を拭おうとして、ヘッドセットに手がぶつかると、カンランシャの応接室の床が見えた。
「どうしたの? 体調が悪いの? 救急車、呼ぶ?」

 僕は首を横に振って、一息吐(つ)くと、両手で膝を押しながらゆっくりと立ち上がった。

 そして、
「大袈裟(おおげさ)だよ。」

 と言った。

 恐らく、同意すれば、本当に救急車を呼ぶ仕組みになっているのだろう。そうした思考が、僕に落ち着きを取り戻させた。

 そして、いきなり救急車を呼ぶというのは、母の言いそうにないことだった。
「石川さん、違和感がある時は、『お母さん、そんなこと、言わなかったよ。』と注意してください。『前はこう言ってたよ。』と訂正してあげれば、それで、学習します。そのきっかけの文言も、仮にこちらで設定したものですので、ご自由に変更できます。一度、試してみてください。」

 僕は、言われた通りに注意をして、
「前は、『大丈夫?』って言ってたよ。」

 と語りかけた。<母>は、少し考えるような表情をして、
「そうだったわね。」

 と微笑した。

 そこまでやりとりしたところで、僕は、助けを求めて野崎を探した。
「視界の右上に触れてください。特に何も印はありませんが、そこに腕を伸ばして触れてもらえれば、終了になります。」

 言われた通りにすると、視界が閉ざされ、やはり少ししてから最初の画面に戻った。

 僕は、会話の途中で切断され、闇の中に取り残されてしまった<母>のことを心配した。「朔也?」と、先ほどとは逆に、<母>が僕を捜して呼びかけている。その姿を思い浮かべると、胸が痛んだ。それは、自然に起こった感情だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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