花捧げる者も無い地で 押川 知美

西日本新聞 オピニオン面 押川 知美

 福岡空港から成田を経由し、約2時間半でウラジオストク空港へ。シベリア鉄道に乗り継ぎ車内で1泊、ハバロフスクに着いた。ロシア紙幣に描かれる美しい街である。

 この夏、ロシア極東を母と祖母の3人で旅した。戦後のシベリア抑留で亡くなった祖父の兄、大伯父を慰霊するためだ。大伯父は1946年1月、宮崎県都城市への望郷の念にかられながら捕虜収容所で24歳の生涯を閉じた。戦後64年目の2009年に突然、厚生労働省から郵便が届き、同封されたロシア語の死亡証明書で命日が分かった。いまだ大伯父が眠る地を訪れたいとの願いが、今夏かなった。

 訪れたのは日本人死亡者慰霊碑と、現地の広大な墓地の一角にある日本人墓地。ここは抑留者310人が埋葬されたという。墓地の碑に、都城から持参した芋焼酎をかけ、米と花を供えた。冬場には氷点下40度にもなるこの地で、どれほどの寒さと寂しさを抱えて、眠りについたのだろうか。苦しさや無念さを思うと涙がこみ上げてきた。

 「シベリアの荒野に無惨にも散華されし戦友に対し唯(ただ)一人として一本の花一本の香も捧(ささ)げる者も無く 無念の戦死を遂げられし戦友の御霊の安かれと祈願して(略)慰霊の碑を建立いたします」

 慰霊碑のある公園の碑文は今でも脳裏から離れない。

 ソ連側が抑留死亡者の関連記録を提供したのは1991年。戦後、弔われなかった先人を思うと、やりきれない気持ちになる。無謀な戦争に突き進んだ当時の日本政府の被害者ともいえるすべての戦没者に、国は最後まで向き合う責任があるのではないか。

 にもかかわらず7月、厚労省の抑留者の遺骨収集事業で、外国人の遺骨と取り違えていたことが発覚した。専門家が数年前から指摘していたが、同省は公表もしなかった。

 赤紙一枚で戦地に駆り出され、見ず知らずの荒野で命を落とした市民たち。戦没者のうち、戦闘中ではなく飢餓や病気で亡くなった人が半数以上に上るとの学説もある。

 「政府のずさんな対応は、遺族が高齢化し、社会が忘れ去るのを待っているかのようだ」。沖縄県などで長年、遺骨収集をしてきた佐賀県みやき町の塩川正隆さん(75)の言葉に共感する。

 シベリアの澄んだ青空の下で、戦争が生んだ悲劇は今も続いていると痛感した。うやむやにすることは、決して許されない。

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 ▼おしかわ・ともみ 2013年入社。宮崎県都城市出身。北九州本社、社会部の事件・司法担当を経て、9月に発足したクロスメディア報道部。

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