台湾を歩く こども特派員ルポ<中>日本統治時代の「遺産」 歴史的建築物を探訪

西日本新聞 こども面

 1895年から太平洋戦争が終わるまでの半世紀、台湾は日本に治められていました。その最高機関だった「台湾総督府」が置かれた台北(タイペイ)市内の中心部には、当時のさまざまな日本の建築物が保存・活用されています。こども特派員が代表的な建築物を訪れ、日本と台湾の歴史に触れました。

【紙面PDF】台湾を歩く こども特派員ルポ<中>

 台湾に着いた私たちは空港から「台北賓館」(1901年完成)に向かった。この日は公開日で、敷地内は多くの観光客でにぎわっていた。

 台北賓館の玄関の前に立つと日本語ガイドの蘇勝中(スシェンチョン)さん(64)が「建物の正面に“台”の字が見えないかい」と上の方を指さした。確かに屋根の部分が「ム」で3階のテラスが「口」の字に見えた。この建物は、日本の統治時代のトップだった総督の邸宅だったそうだ。部屋は17室もあり、広々として使いやすそうだった。蘇さんは「日本の統治が終わった後は、台湾を訪れた外国の首脳を歓迎する場所として使用された」と説明した。

 翌日訪れた国立台湾博物館(旧台湾総督府博物館・1908年完成)は大きなドームが印象的だった。ドームの内部はステンドグラスで飾られていて、真下に立つと光のシャワーを浴びているような感じがした。台湾で見た建物の中でも特に美しいと感じた。

    ◇  ◇

 最終日、現在の台湾のトップ「総統」が執務をする「総統府」を取材した。日本の統治時代の1919年、台湾総督府の建物として完成した。建設から100年たった今でも、この建物が台湾の政治の中心であり続けていることに驚いた。

 日本語ガイドの陳淮末(チェンホアイソン)さんによると、総統府は日本製のれんが造りで「権力の象徴として上空から“日”の字に見えるように設計されている」そうだ。中央には高さ約60メートルのタワーがあり、建設当時は台湾で一番高い建物だった。タワーのてっぺんには台湾の旗がひるがえっていた。「旗を揚げ降ろす兵士は転落防止で命綱を着ける」と聞き、高さを想像して目が回りそうになった。

 建物内には、総統が仕事をする執務室をまねた部屋もあった。陳さんは「今の蔡英文(ツァイインウェン)総統は、民主的な政治の象徴として総統府の一般公開に力を入れている」と解説した。陳さんは86歳。ガイドのやりがいを聞くと「ここにいると日本の統治時代から今の台湾への歴史の流れを実感できる。元気な限り続けたい」と笑った。

 日本の統治時代の「遺産」である建物には、日本と台湾の歴史を伝える大切な役割があると感じた。

 ●「皆さんの世代で 友情さらに深めて」 30年以上日本に勤務 元外交官・戎義俊さん

 私たちは台湾の外交官として東京や福岡に30年以上勤務した戎義俊さん(66)に台北市内で取材した。

 日本の統治時代を台湾の人はどう受け止めているのか。戎さんは「確かに日本の統治時代には悪いこともあった」としながらも「多くの台湾人は鉄道や水道の整備、農業の振興など、日本が台湾の近代化に果たした役割は非常に大きかったと感じている」と語った。東日本大震災の時は台湾の政府や市民から約250億円の義援金が日本に寄せられた。「日本への恩返しだと支援の輪が広がった。私は今の台湾は世界一の親日国だと思っている」

 取材で台湾の小中学生に会い、刺激を受けたと話すと戎さんはとても喜んだ。「台湾の子どもは向上心が強い。『将来の夢は総統』と言う子がたくさんいるよ」と笑い、「皆さんも世界のニュースや語学に興味を持ってほしい」と語った。

 戎さんは観光アドバイザーとして修学旅行やホームステイで台湾と九州の高校生が交流する取り組みを進めている。「皆さんの世代で日台の友情がさらに深まることが私の願いです」

 ●わキャッタ!メモ
 ▼日本統治時代の台湾 台湾は17世紀にオランダの植民地となり、その後、清(現在の中国)に支配された。明治時代になり、日清戦争に勝利した日本が清から台湾を割譲(1895年)し、太平洋戦争敗戦(1945年)まで統治した。学校で日本語が教えられたこともあり、台湾のお年寄りの中には日本語が話せる人もいる。日本によるインフラ整備や農業改革が進められた一方で、日本の支配に抵抗する運動もたびたび起こった。太平洋戦争中は日本軍の軍人・軍属として約20万人が出征し、3万人以上が戦死したとされる。

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