水俣、91歳母わびる 2歳で逝った娘思い 慰霊式遺族代表の上野さん

西日本新聞 社会面 古川 努 村田 直隆

 最愛の家族を不条理に奪われた悲しみは、癒えることはない。19日、熊本県水俣市で営まれた水俣病犠牲者慰霊式は、差別や偏見に耐えながら懸命に生きてきた患者や遺族らの祈りに包まれた。水俣病が公式確認されてから63年。患者・遺族代表として車椅子で出席した上野エイ子さん(91)は声を震わせ、「祈りの言葉」を読み上げた。2歳で亡くなった胎児性患者の娘良子さんへの思い、そして「公害のない社会」実現への願いを込めて。

 <お前は母ちゃんと呼べなかった つらかったろう 淋しかったろう 母は心からおわびしたい>

 上野さんの言葉は、娘への謝罪で始まった。

 生まれ育ったのは、水俣湾に近い同市袋の湯堂地区。夫忠市さんと一緒に漁をしていた1958年8月、悲劇は前触れもなく訪れた。忠市さんの手が急に震えだし、その夜には会話もできなくなった。もがき苦しみ、13日後に劇症型水俣病で息を引き取った。33歳だった。

 悲しみを和らげてくれるように6日後、良子さんが誕生した。「うれしかったなぁ」。元気に泣く娘の姿に、上野さんは忠市さんの分まで長生きしてと願った。

 <まさかその子が、水俣病におかされて生まれてくると、誰が考えたことでしょう>

 良子さんはいつまでも手足をダラッとさせたまま首も据わらず、病院でポリオ(小児まひ)と診断された。「頭がぱーっとなって、震えがとまらなかった」(上野さん)。看病のかいなく、良子さんは61年3月に死去した。後に、初めて胎児性患者と確認された。

 上野さんは73年から、水俣病患者の福祉施設に勤務した。胎児性患者を良子さんに重ねて定年まで介護に当たった。年を重ねるたび良子さんの記憶が遠くなっていたが、昨年久々に慰霊式に参列し「会えた気がした」。式典直後、「自分も長くない。最後にもう一度わびたい」と、99年以来2回目となる患者・遺族代表に志願した。

 <私たちが受けた差別や苦しみを与えた言葉は決して忘れたわけではありません>

 忠市さんと良子さんが病に苦しんだ60年ほど前、水俣病はまだ「奇病」と呼ばれていた。上野さんは、病院や集落でも差別的な言葉や視線を浴び続けた。原因企業チッソ前での座り込みでも、道行く人に唾をかけられたこともあった。

 裁判で訴えることも家族や親戚に反対され「それが一番悔しかった」。自らも認定患者で感覚障害などに苦しみながら20年間、水俣病資料館の語り部として、小中学生に体験を伝えてきた。

 <どうか皆さん、水俣病のことを忘れないでください>

 家族を水俣病に奪われる苦しみを、二度と繰り返さないで-。上野さんの最後の願いだ。 (村田直隆)

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