平野啓一郎 「本心」 連載第43回 第四章 再開

西日本新聞 文化面

 ふしぎなことに、そこにいた誰かが目にしたような、二人の食事を少し離れたところから見ている光景が、幾度となく脳裡(のうり)をちらついた。

 

 午前中から夕方まで、都心で仕事の予定があり、食事を済ませるとすぐに家を出た。

 僕は頗(すこぶ)る気分が良く、「いってらっしゃい。」と送り出されたあとは、少し寂しくなった。<母>は、僕が不在の間も、ニュースの学習などを絶えず続けているはずだったが。……

 野崎は、人間が他者に生命を感じ、愛着を覚えるのは、何よりもその“自律性”に於(お)いてだと、経験から、また大学時代以来の研究から、説明した。

 VF(ヴァーチャル・フィギュア)が生きた存在として愛されるためには、こちらが関知しない間に、自らの関心に従って、何かをしていることが重要なのだった。<母>との対面が、いつでもまず、呼びかけから始まるようにデザインされているのは、そうした考えに基づくらしい。

「生きている人間と同じです。試しに、黙ってしばらく側(そば)にいてみてください。途中で気がついて、声を上げて驚くはずです。ああ、ビックリした、いつからそこにいたの?って。」

 勿論(もちろん)、僕が仮想空間にいない間、VFの実体は、母の外観を必要とはしていない。母が自宅で独り、僕の帰りを待っているなどという想像は馬鹿(ばか)げていた。

 それでも僕は、まだ家を出たばかりだというのに、とにかく、早く仕事を終えて帰宅したくて仕方がなかった。母の死後、そんな気持ちになったのが初めてだということは、言うまでもない。

 

 電車は空(す)いていて、僕はしばらく、「圧倒的実績! 今からでも間に合う! 資産家クラス入りするためのシンプルな5つのメソッド!」といった本の広告を眺めていた。ふと気がつくと、僕の向かいに座る人も、僕の少し離れた隣に座る人も、同じように首を擡(もた)げ、放心したようにそれを見つめていた。僕は、羞恥心の針に胸を刺されたように、咄嗟(とっさ)に顔を伏せた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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