アイドル編<438>田中久美(下)

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 アイドルとして活躍していた田中久美が引退するのは1986年だ。前年の4枚目のシングル盤「火の接(せっ)吻(ぷん)」が最後の歌になった。約2年間のアイドル生活だった。ひっそりと福岡県築上町に帰郷した。

 「歌を歌いたかったからです」

 田中はホリプロと契約更新をしなかった理由の一つをこのように語った。田中が「火の接吻」をリリースした85年、アイドル歌謡の潮目が変わりつつあった。そのシグナルの一つはアイドルグループ「おニャン子クラブ」の誕生だ。集団アイドルが登場し、アイドルの売り出し方の方程式に変数をもたらした。こうした時代状況などを背景に田中へ打診があった。

 「バラエティー番組への路線変更の話でした」

 食レポや旅レポなどの仕事である。歌から離れなくてはいけない。大ヒットがなかったこともあっただろうが、若い田中にとっては辛い選択だった。同じホリプロの一年下の井森美幸たちはいわゆる「バラドル」(バラエティーアイドル)に転身した。

   ×    ×

 田中は帰郷した後、北九州市の「小倉井筒屋」1階のアクセサリー売り場に勤めた。

 「ファンの人たちがよく『アイドルがいる』と見にきていましたね」

 引退について、周辺には知らせていなかった。特に親友の同級生、岡田有希子にはどこか後悔の念があった。岡田は人気絶頂の86年に命を絶った。その死の約1週間前、電話していた。

 「引退することを告げずに故郷に帰った。それが心に隅に残っていました」

 田中は19歳で結婚し、32歳で離婚(その後、再婚)した。その間、歌とは離れていた。離婚を契機に知人の力添えもあり、北九州市のパブで定期的にマイクを握り、ライブ活動を再開した。また、地元のラジオ番組のパーソナリティーなども担当した。

 「自分の番組で有希子ちゃんの歌をかけたとき、ようやく彼女への負い目が消えたように思います」

 元アイドル。この肩書はある意味、嫌みな呼称でもある。

 「そう呼ばれることに今、抵抗感はありません。一握りの人しかできない貴重な経験をしました。その後の人生の糧になっていることも確かです」

 40歳過ぎて、オペラの歌唱法を学ぶなど歌への探求心は盛んだ。孫が3人の元アイドルは現在も歌い続けている。 =敬称略 

 (田代俊一郎)

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