食欲の秋に読む黒歴史 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 戦時中の庶民の暮らしを描くドラマに、しばしば「瓶づき」をする主婦の姿が出る。一升瓶に玄米を入れ、棒でついて糠(ぬか)を除く精米の方法だ。

 お米は日中戦争下の1939年に白米禁止令が出て、糠などを多く除いた七分づき以上の米の販売が禁じられた。太平洋戦争中の43年には、さらに五分づきの米が配給され、すぐに政府は脱穀しただけで糠をそっくり残した玄米を配給し始めた。糠にはビタミンB1などの栄養成分があり、食糧を節約するためとして玄米食を奨励したわけだ。

 当時は玄米を炊くのには、白米の倍の時間がかかり、よくかまなければ腹を下しやすかった。庶民にすれば、乏しい米なればこそ、おいしく食べたいし、炊飯に使うまきなどの燃料も足りない。そこで「瓶づき」に精を出した。今では風化した記憶だが、料理研究家の畑中三応子(みおこ)さんが「体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか」(ベスト新書)で振り返っている。

 太平洋戦争は戦線を広げ過ぎて兵士の食糧補給も滞った。作家の半藤一利さんは、戦死者240万人のうち「広義の飢餓による死者は70パーセントに及ぶのである」と「歴史と戦争」(幻冬舎新書)に書く。「学校秀才」の参謀が補給を軽んじたがために、インパール作戦などでは無数の兵士が飢えて骨になった。

 そもそも日本軍の食料供給は失敗の連続だった。

 明治の陸軍では、脚気(かっけ)という難病が猛威を振るった。主食を白米だけに頼るとビタミンB1が不足して、心不全などを引き起こすのだが、当時はビタミンB1そのものの存在が解明されていなかった。また軍隊では、腹いっぱい白いご飯を食べさせることが、貧しい出の兵士の士気を確保する手段となっていた。

 故吉村昭さんは小説「白い航跡」(講談社文庫)で、この脚気のために陸軍では日清戦争期に3944人、日露戦争では2万7800余人が死亡したとする。日露戦争の脚気による死は陸軍の全戦死者の6割に当たるというのだ。

 海軍では宮崎出身の医官、高木兼寛(たかきかねひろ)が臨床例を分析して兵士の食事を白米から麦飯中心に切り替えて、脚気を一掃していた。しかし陸軍の医官だった森鴎外は脚気の原因を細菌とする誤った説を唱え、むしろ高木批判の急先鋒(せんぽう)となった。文学では不滅の名を刻む鴎外だが、軍医官としては大きな失敗をした。

 そして今なお「買い物難民」と呼ばれる過疎地の高齢者には、白米中心の偏食で脚気になる人がいる。飽食の時代に思い出したい日本の黒歴史である。

 (編集委員)

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