祈りと異質な巨大芸術 平和祈念像 法王は今回も立ち寄らず

西日本新聞 長崎・佐世保版 山崎 健

 「顔は神でもなく、仏でもありません。キリスト教徒もイスラム教徒も、誰もがここで平和を祈り、念じることができるように建てられたのです」

 10月初旬、秋晴れの長崎市・平和公園は、さながら修学旅行生ラッシュの様相だった。平和祈念像前で写真撮影を終えた小学生たちに、女性ガイドが像の由来を説明していた。

 台座と合わせ高さ約13メートル。青銅製の巨大な祈念像は南島原市出身の彫刻の大家、故北村西望が長崎市から制作の委託を受け、被爆10周年に当たる1955年8月に完成させた。以後、8月9日の平和祈念式典は毎年、祈念像前で開催。像は被爆地「祈りのナガサキ」の代表的なイメージとして世界的にも知られる。

 ただ、11月に長崎を訪問するローマ法王フランシスコは、81年2月に来崎した当時の法王ヨハネ・パウロ2世に続き、祈念像には立ち寄らない。

偶像崇拝禁止?

 ヨハネ・パウロ2世の来崎時の長崎市長でカトリック信徒でもあった故本島等氏は、キリスト教が偶像崇拝を禁止していることなどを根拠に、法王が平和公園を訪問しなかった原因は祈念像にあるとの見方を示してきた。

 バチカン側の真意は不明だ。しかし、原爆が投下された浦上地区出身のカトリック信徒の中にも、祈念像に対する違和感を抱く人たちがいることも事実だ。

 長崎新聞の元論説委員長、高橋信雄さん(68)によると、浦上教会の主任司祭だった故川添猛神父は生前、高橋さんの取材に対して「私自身は平和祈念像の前には決して行かない」「巨大な芸術品の前で祈りをささげることなどできない。いくら像の名前に平和を冠していても、被爆者として、あの像とは相いれない」と語っていたという。

 1865年の「信徒発見」。神父に信仰を告白した旧浦上村の潜伏キリシタンの一人、森内てるの5代目の子孫で、被爆2世でもある森内慎一郎さん(71)=佐賀県小城市、弟の浩二郎さん(66)=長崎市=も、祈念像を「巨大な芸術品」と例えた川添さんの思いに共感を寄せる。

 入市被爆者として亡くなった両親、慎一郎さん、浩二郎さんとも祈念像前での平和祈念式典に出席したことはない。毎年8月9日、原爆投下時刻の午前11時2分は、浦上天主堂や爆心地公園の原爆落下中心地碑の前などで祈ってきた。

 「人それぞれに感じ方が違うと思いますが(像のもとで祈りをささげることに)私はやはり抵抗があります」と浩二郎さんは言う。

 「観光シンボルとしてはいいのですが」と語る慎一郎さんは、「作者の北村氏に対する疑問もあるものですから。川添神父もそういうことを感じておられたのでは」と続けた。

名誉欲あらわ

 北村は戦前戦中にわたり、戦意高揚のための軍人像などを数多く手がけた。

 反核、反戦の美術評論家、故針生一郎氏は、北村について「戦後一転して平和や自由をうたいあげる公共彫刻に意欲を燃やしたが、戦前戦中の自作についての深い反省もなく百余歳まで生きたので、各地に醜悪無残な彫刻公害を残している」と酷評。その代表格が、北村の戦前戦中の作風そのままの男性裸像、平和祈念像ということなのだろう。

 長崎市が慰霊塔の建設構想を持っていることを知った北村は自らを売り込み、「奈良の大仏に倣ってできるだけ大きな男神像をつくるべきだ」と主張。完成後に記した「国宝として残るようなものにしたいという一心から…数千年の後までもこの像とともに、私は死なずにすむ」という一文には名誉欲があらわだ。

 作者の願望通り、祈念像は奈良の大仏にも負けない観光名所としては定着。その一方、北村が掲げた「宗教、人種、国籍を超えて、あらゆる人に受容される」像ではないこともまた明らかだ。

 11月、ローマ法王は原爆落下中心地碑が立つ爆心地公園を訪れる。「浦上は殉教者の土地であり、原爆が投下された土地でもある。私たちにとって教皇(法王)様は長崎に来られるというより、浦上に来られるという気持ちなのです」と浩二郎さんは話す。だからこそ慎一郎さんも浩二郎さんも、法王が原爆犠牲者を慰霊するために訪れるにふさわしい場所は、原爆で倒壊後、移設された旧浦上天主堂の遺壁も並び立つ中心地碑のもとだと信じてきた。

 祈念像の周りをぐるりと歩くと、像の裏には北村の言葉が刻まれ、こんなくだりもあった。「山の如き聖哲 それは逞(たくま)しい男性の健康美」。祈りとはかけ離れた異質なもの。38年ぶりの法王不在は、それをあらためて映し出す。(長崎総局長・山崎健)

長崎県の天気予報

PR

長崎 アクセスランキング

PR

注目のテーマ