明治の博多っ子、なぜ富士登山? 博多町家ふるさと館で謎に迫る企画展

西日本新聞 ふくおか都市圏版 日高 三朗

 今から100年以上前の1910(明治43)年7月中旬、博多祇園山笠がフィナーレを迎える直前、博多っ子約40人の一行が富士登山の長旅に出た。鉄道網が整備されていく過渡期、旅そのものが困難だった頃になぜ富士山を目指したのか。その謎に迫る企画展が11月24日まで、福岡市博多区冷泉町の博多町家ふるさと館で開かれている。富士信仰をテーマにした長谷川法世館長の巨大なイラスト画も見どころの一つになっている。

 上川端町の櫛田神社に程近い、冷泉公園沿いに立つ高さ約3メートルの石造りの常夜灯。博多っ子の有志が富士登山を記念して奉納した。参加者の町名を見ると、福神流(ながれ)の西門町、中小路(現在の博多区上呉服町)の人々が中心だった。

 福神流の舁(か)き山笠は「幻の流」と呼ばれている。1905(明治38)年、雷鳴を出発太鼓の音と間違えて1分早く出たため、追い山を大混乱させた。その後、混乱の責任を取り参加を取りやめてしまったという。富士登山は“雷鳴事件”の5年後に決行されている。現代でも富士山は夏登山が人気。舁き山笠を担当した時に比べると時間が取れる立場となったため実行したのだろうか。

 長谷川館長は約10年前から興味を持ち、ふるさと館の松尾由美子学芸員が調査した。資料が乏しく全容の解明に至ってはいないが、興味深いエピソードや人物の手がかりはつかんだ。

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 登山に先立つこと12年前、黒田家当主が富士山に登っていた。当時、評判だった旅行案内にも記されている。その影響からなのか、博多っ子の富士登山には多くの著名人が名を連ねていた。博多の演劇文化の発展に尽力した武田与吉は当時54歳。九州を代表する歌舞伎の殿堂・大博劇場の設立にもかかわった。衣笠八郎は、福岡藩最後の御用絵師で画塾を開き、日本画家の冨田渓仙を育てた。

 会場には、2カ月ほどかかったとされる長旅や時代背景を紹介するパネル、与吉を写した博多人形、白装束の記念写真など約60点が並ぶ。当初は「単なる物見遊山の旅では」と疑っていた松尾学芸員。達成後には常夜灯を建ててアピールし、新聞に掲載されるほど話題を集めたことに、今では「強い思いがこもった登山だったかもしれない」と思案を巡らしている。

 富士信仰の隆盛を示す江戸時代の錦絵を手本に高さ約3メートル、幅約2メートルのアクリル画を描いた長谷川館長は「イラストボードに描くのは難しく悪戦苦闘したが楽しく描けた」と話す。巨大絵の展示も手伝って企画展が盛り上がり、新たな情報がもたらされることを関係者は切に願っている。

 企画展の問い合わせや、博多っ子の富士登山の新情報は博多町家ふるさと館=092(281)7761=まで。 (日高三朗)

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