聞き書き「一歩も退かんど」(8) マドロスに憧れ家出 志布志事件冤罪被害者 川畑幸夫さん

西日本新聞 オピニオン面 鶴丸 哲雄

 1961年、私は中学を卒業しましたが、高校には進みませんでした。当時の志布志では農家の跡取りは中学を出たら家に入るのがごく普通のこと。農作業を手伝いながら土木作業に出て家計を助けるのです。

 ただ、胸にはずっと「マドロス」への憧れがありました。岡晴夫さんの「憧れのハワイ航路」や美空ひばりさんの「港町十三番地」など、マドロス歌謡がはやっていました。「バタヤン」と呼ばれた田端義夫さんのマドロス帽が、それはかっこよく映りました。

 おいもマドロスになりたか-。思いを募らせた15の夏、私は家出を決行します。今となれば浅はかですが、どこかの島に行って大きな船に頼みこめば、船員に雇ってもらえるのではと考えたのです。

 目指したのは種子島。旅費は、土木作業のアルバイト代の一部をこっそりためていました。よそ行きの服などないので中学の制服を着て、鹿児島市までバスで出て、鹿児島港でフェリーに乗り込みました。

 船は煙を吐く桜島に別れを告げ、穏やかな錦江湾(鹿児島湾)を南へ進みます。右手に薩摩半島、左手に大隅半島の山並みを後にして、太平洋に出ると白波が立っていました。海の雄大さに見とれました。

 意気揚々と種子島の西之表港に降り立つと、すぐに2人の警察官が近寄ってきました。「君は中学生? 1人でどこに行くの?」。職務質問というやつですね。私は中学を出て既に働いており、船員になろうと思って島に来たと説明しましたが、警察署に一時保護され、次の鹿児島行きフェリーに強制的に乗せられました。船が出るまで警察官が岸壁からずっと見張っていて、逃げ出すことはできませんでした。

 肩を落として鹿児島港に着くと、父の栄三が迎えに来ていました。警察が連絡したのでしょうね。「殴られる」と覚悟して身を硬くしていたら、父は「親にあんまり心配かけるな」と言ったきり、何もしゃべりません。父と2人、黙り込んだままバスに揺られ、志布志に戻りました。父がこぐ自転車の後ろに乗って、家まで帰りました。

 そして私は、父に「なんぼ連れ返されても、おいはまた家出すっど」と正直な思いを告げました。今振り返ると、職業は何でもよくて、とにかく古くさい田舎を出たかったのですね。父は最後には折れて、「イモを取る時期には帰って来いよ」と言いました。 (聞き手 鶴丸哲雄)

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