【二足の靴 白秋ぶらり旅】美々津・高千穂編 船出の朝日 捉えられたか

西日本新聞 もっと九州面

 年号が「令和」へ移り、皇室の歴史に注目が集まったことで、北原白秋の埋もれていた歌に再びスポットが当たり始めている。白秋が亡くなる2年前、1940(昭和15)年に発表された交声曲(カンタータ)「海道東征(かいどうとうせい)」。神話上の初代天皇、神武天皇の東征を題材にした大作である。北原白秋生家・記念館(福岡県柳川市)の大橋鉄雄館長(67)と行く「二足の靴 白秋ぶらり旅」。今回の目的地は、神話の古里、宮崎県日向市美々津町と高千穂町にした。翌41年にこの地を訪問した白秋の足跡をたどってみる。

 「長い道中、まずは海道東征を聴きましょう」。大橋さんがCDを差し出した。プレーヤーを起動させると、雅楽を思わせる荘厳な調べに乗って朗々としたバリトンが。

神坐(ま)しき、蒼(あお)空と共に高く

 空にいる神様とは天照大神(あまてらすおおみかみ)のことか。「いい声ですねぇ」と聞きほれる大橋さん。

 この歌は日本が第2次世界大戦へ突き進む中、皇紀2600年奉祝曲として作られた。第1章の「高千穂」より全8章から成り、神武天皇が都を開くまでを、男性、女性に少年少女も加わって歌い上げる。作曲は軍歌「海ゆかば」を手掛けた信時潔である。

 国内のいろんな団体が国威発揚を競った時代。白秋や信時は、その偉大な才能ゆえにその一端を担わされたとの見方もできるだろう。ただ、白秋の力の入れようは尋常ではなく、全身全霊で「和魂の本質」(白秋)を追求したのが、この海道東征である。

 白秋はこの業績により、41年、本紙の前身の福岡日日新聞より文化賞を受ける。余談だが、「中央のいかなる新聞から受けるより、郷土の新聞の賞に幸福を感じる」と本紙泣かせの感想も記した。授賞式出席後、海道東征のレコードを携えて向かったのが宮崎県。「自らが作った歌の舞台を確かめたかったのでしょう」(大橋さん)

 高千穂峡(高千穂町)に着く。清冽(せいれつ)な水と緑が目に染みる。早稲田大の親友だった若山牧水の碑と並んで、白秋が高千穂で詠んだ歌の碑があった。刻まれた長歌が胸に迫る。一部を紹介する。

今にして、我はや死にせむ、この道半ば

 海道東征を作詞した頃から白秋は両目の視力をほぼ失っており、妻に口述筆記させるなどして、大作を完成させた。自らの死期が近いことも、悟っていたのか。

 続いて天岩戸神社(同町)へ。神話で天照大神が隠れたとされる「天の岩戸」を、神職の案内で見学した。ご神体なので撮影不可。背筋を伸ばし、数十メートル先の山腹のほこらにかしわ手を打つ。歳月を経て崩落したのか、思ったより穴は小さい。神職に尋ねると、「元は奥行き9メートル、間口18メートルの洞窟だったと言われます」。白秋が参拝した時もその大きさだったのだろうか。

 夕方、神武天皇が東征の船出をしたとされる美々津町に到着。江戸時代の面影を残す街並みは静かである。家々の郵便受けには船出伝説にちなみ、船の絵や彫刻が施されていた。海道東征第3章「御(み)船出」はこんな言葉で始まる。

日はのぼる、旗雲の豊の茜(あかね)に、いざ御船(みふね)行でませや、うまし美々津を。

 うまし、とは古語で素晴らしいの意味。あかね色に染まる朝の日向灘は、都を開く大事業の船出にぴったりだ。「白秋は近くの立磐(たていわ)神社で午前5時から日の出を待ちました。私たちもこの目で見てみる必要がありますね」。普段は朝寝坊の大橋さんから余計というか、うまし提案が…。

 翌朝午前5時半にホテルを出発し、美々津海岸でカメラを構える。午前6時13分、「御船出の瀬戸」に曙光(しょこう)が。美しい。この荘厳な光景を、老いた白秋の目は捉えられたか。「きっとくっきり見えましたよ」と大橋さんがほほ笑んだ。そう、心眼という言葉もある。

(鶴丸哲雄)

 故郷・柳川で21年に演奏会 海道東征

 福岡県柳川市では、2021年2月に予定される新たな市民文化会館の落成に合わせ、「海道東征」の演奏会が開かれる。白秋の故郷・柳川でこの歌が全面演奏されるのは初めて。6月に市民合唱団が結成され、練習に励んでいる。

 実行委員会は費用を賄うため一口2000円で募金を集めている。事務局を務める白秋館の大橋鉄雄館長は「柳川にとって歴史的な演奏会に、ぜひご協力を」と呼び掛ける。白秋館=0944(73)8940。

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