聞き書き「一歩も退かんど」(9) 夢の東京生活始まる 志布志事件冤罪被害者 川畑幸夫さん

西日本新聞 オピニオン面 鶴丸 哲雄

 東京五輪が開催される1964年。18歳になっていた私は念願の東京に旅立ちます。父栄三の弟、川畑収が東京で菓子店を営んでいて、身元を引き受けてくれることになったのです。夢がかなった私は、上京する直前までサツマイモの収穫に精を出したことは言うまでもありません。

 正月が終わるとすぐ寝台列車に飛び乗りました。やっと東京駅に着きましたが、収叔父さんとは何年も会っておらず、互いに顔が分かりません。薄暗いプラットホームからは潮が引くように人がいなくなっていきます。その心細さといったら…。すると、一人の男性が呼び掛けてきました。

 「幸夫け?」

 私は思わず「収あんやん(兄ちゃん)け?」と問い返しました。「ああ、おれだ。よく来たな」と言われて、体の力が抜けました。叔父さんは「幸夫も太うなったなー。全然分からなかった」と笑い、自宅まで案内してくれました。

 叔父さんは私を預かることにしたわけを、話してくれました。「おれも幸夫と同じように上京しようとして、皆に反対されたんだ。すると、おまえのお父さんだけが応援してくれた。『頑張れ。一人前になるまで帰ってくるな』と、せんべつまでくれた。その恩返しだよ」。父のしかめっ面が懐かしくなりました。

 私は叔父さんの知人のつてで、大森警察署の隣にあった運送会社で助手として働くことになりました。1階がトラックの車庫で2階が事務所、3階が寮。寮と言っても畳敷きの大部屋で、20人で雑魚寝生活です。

 私は免許がないので、鋼管や清涼飲料水の積み降ろし、トラックの洗車が主な仕事でした。いろんな運転手にかわいがられて、楽しい助手時代でした。

 暑い夏に宮崎県出身の運転手に付いて長崎まで行ったこともあります。クーラーなんてなく、小さな三角窓からは風も入りません。2人ともステテコに肌着1枚の格好になって、箱根の山を何とか越える頃には、汗びっしょりでしたね。

 忘れられないのは10月21日の東京五輪マラソン。会社の前の道路がコースになっていて、私は車庫に止まったトラックの荷台の上から観戦していました。すると、黒い肌の選手がすーっと目の前を走り去っていきました。エチオピアのアベベ選手です。他の選手は必死の形相で走っているのに、1人だけ軽やかですごく優雅な感じ。「世界って広いなあ」と感心しました。 (聞き手 鶴丸哲雄)

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