フレディの故郷の人々 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 インドの「映画の都」ムンバイが、まだボンベイといわれていたころの話。街を案内してくれた32歳の観光ガイドが「パールシー」と呼ばれるペルシャ人の美人で、お茶の時間に自宅へ招かれた。

 パールシーは、古代のイランに栄えたササン朝ペルシャがイスラム勢力との戦いで滅んだ後、8世紀から10世紀にかけてインドへ移り住んだ人々の子孫である。ゾロアスター教(拝火教)を奉じ、葬儀では死者の体を鳥に与える「鳥葬」の慣習が続く。宗教による結びつきは強く、富裕層が多い。インドの財閥タタ・グループはその一族だ。

 なるほどガイドの家も白亜の高層マンションだった。設計者は彼女の建築家の父親だという。玄関をくぐると、祭壇に拝火教の灯明と開祖の肖像画がある。ドイツ語で言う「ツァラトゥストラ」だ。

 客間では母親と5人の女性がトランプを楽しんでいる。客の一人を紹介された。ニィルパー・ロゥエさん。50代になって母親役が多くなったが、インドでは高名な女優だという。首都デリーから取材に同行している大学生の青年が口をぽかんと開けていた。

 パールシーには政財界だけでなく、芸術界にも世界的な著名人がいる。指揮者のズービン・メータ、そして英国のバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーもそうと聞かされ驚いた。

 フレディは官吏の父が赴任したアフリカのザンジバル島で生まれたが、少年期は両親の故郷のムンバイで送った。ピアノを習う傍ら、ムンバイの歌手の影響を受けた。あの独特な風貌と歌声は、波乱の歴史の下に育まれたわけで、日本にも縁がある。

 ササン朝の滅亡後、極東の日本へ渡り、奈良時代の朝廷に仕えたペルシャ人がいた。破斯清通(はしのきよみち)といい、出土した木簡に名前があった。「破斯」はペルシャを音で示す漢字だ。奈良の正倉院にはササン朝由来の宝物も多く残る。

 まだクイーンがさほど売れていなかった時、そんな日本で人気が爆発した。初来日したフレディは、予期せぬ女性ファンの熱狂的な歓迎に驚いた。その興奮を帰りの機中で歌詞に書き留めたのが、大ヒット曲「伝説のチャンピオン」なのだという。今もスポーツのイベントで鳴り響く。

 私がインドから戻った直後、フレディの訃報が飛び込んで来た。1991年11月24日、エイズの合併症に倒れた。享年45。その死は、エイズ撲滅の世論を加速し、彼がそうだったLGBT(性的少数者)への理解も広げた。歴史を動かし、パールシーの男は昇天した。 (編集委員)

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