戦後 決死の沖縄密航 疎開者の早期帰還図る 沖縄県福岡事務所職員の手記発見

西日本新聞 一面

 太平洋戦争時に沖縄から出兵後に九州へ復員し、戦後は福岡で沖縄県出身者の生活を援助した、ある役人の手記が見つかった。福岡市・天神にあった沖縄県福岡事務所に勤めていた1人のウチナーンチュ(沖縄の人)は、戦後も九州にとどまる疎開者の早期帰還を進めるべく、福岡から米軍施政下の沖縄へ決死の密航を図っていた。

 沖縄県与那原町出身の瑞慶村智啓(ずけむらちけい)さん=2007年死去、享年85=は、終戦直後、同県福岡事務所の職員に。多くの引き揚げ者や復員者があふれる福岡では、沖縄の疎開者にまで自治体の支援は届いていないのが現状だった。

 沖縄県の関係者が保管していた手記は1946年3月に始まる。当時の福岡は「路上には食や職を寝場所を求めてさまよう者であふれていた」とし、沖縄出身者には「占領下の郷里の状況は全くわからず、帰郷もかなわず行くあてもない。その心境や困窮は言葉では言い表すことのできない悲痛なもの」とつづっている。

 24歳だった46年夏。遠く福岡の地で、親族や知人のその後を案じる沖縄県人と接し、「相互の安否を多くの方に知らせ得る懸け橋となりたい」と、沖縄への密航を計画した。生活の困窮ぶりを直接伝え、援護を求めるためだ。

 7月20日、福岡から鉄道で熊本へ。「焦土と化して野菜の種子が皆無である」沖縄のため、野菜の種子を買い、小型漁船を確保し、熊本県の日奈久港から出港した。「生きた心地なし」。高波と強風にさらされながらも、イルカを仕留めて食料にし、鹿児島・奄美大島へ。米軍に怪しまれず沖縄へ上陸できるよう、適当な船名と登録番号を記した戸板を船に付けた。

 7月末、沖縄本島に上陸後は石川(現うるま市)へ。疎開学童の早急な引き揚げなどを求め、初代沖縄民政府知事、志喜屋孝信氏と米軍将校に直接交渉した。「決して案ずるより生むが易しというようななまやさしい気持ちの仕事ではない。死を覚悟しての対決だった」。九州に残る沖縄県人の救済を求めた。

 同じルートを逆にたどり福岡へ。「この今の感激を大声をはりあげて遥(はる)か遠い福岡の地まで届けたい」。8月12日、約3週間の密航の旅を終えた。決死の交渉が影響を与えたかは定かではないが、この頃から帰還が始まり、疎開者は順次沖縄に戻っていった。

 瑞慶村さんの証言は与那原町史に一部が記されているが、「昭和二十一年七月 沖縄密航千四百キロ-今、書き残さなければ」と題した手記は身内以外には見せていなかった。戦後70年以上を経て初めて明らかになった密航の全容。町史に証言を聞き書きした同町の上江洲(うえず)安昌さん(70)は「瑞慶村さんは本土と沖縄をつないだ人だった。疎開というよりは戦争難民。戻ってきた人は焼け野原の沖縄を見て、生きて帰ってきたことに負い目を抱いていた。こんなことは二度と起こしてはいけない」と話した。 (阪口彩子)

終戦直後、天神・岩田屋で沖縄県庁代行

 沖縄戦で消滅した県庁機能を臨時的に補う「沖縄県福岡事務所」は沖縄県庁の代行機関として、東京、大阪、熊本、大分、宮崎、鹿児島に置かれた全国6事務所を統括する重要な役割を担った。現在の福岡県春日市などに寮を置き、沖縄県人の援護に努めた。

 沖縄戦の戦禍を避けるため、1944年7月から45年3月にかけて、九州を中心に計約6万人が沖縄から疎開した。終戦後、疎開者や復員者は米軍占領下になった沖縄に戻ることができず、連絡も取れなかった。福岡事務所は疎開者の帰還がほぼ終了したとされる48年9月に閉鎖された。

 瑞慶村智啓さんの手記によると、福岡事務所は福岡・天神の岩田屋3階にあった。岩田屋の社史には「当時売る商品が無くなるし、貸屋業に転ぜざるをえなかった」と記されており、本業の売り場は1階と地階の半分に。8階建て本館の3階から5階までを通産局などの官公庁や新聞社に貸していたという。

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