聞き書き「一歩も退かんど」(10) しっかり者に引かれて 志布志事件冤罪被害者 川畑幸夫さん

西日本新聞 オピニオン面 鶴丸 哲雄

 1960年代の日本は、高度成長期のまっただ中でした。私は20歳で大型免許を取って運転手として独り立ち。東京都町田市の山を切り開く宅地開発事業で、ダンプやブルドーザーを運転していました。もちろん、父の栄三との約束通り、11~12月は長期休暇を取って帰省し、サツマイモの収穫に精を出しました。

 その頃、私には気になる女性がいました。加世田順子さん。旧松山町(鹿児島県志布志市)の尾野見小に用務員として勤めていました。そう、現在の妻です。

 順子は、私より10日遅れの1945年11月12日、中国・大連で生まれました。敗戦と、その後の混乱で一家の暮らしは一変。父の文雄は現地警察の巡査だったためシベリアに抑留されてしまいます。母のヨシエは生後間もない順子とその姉を連れて、命からがら引き揚げ船で佐世保にたどり着きました。

 順子に記憶はありませんが、日本に着いた時は栄養失調で死ぬ寸前だったようです。義母は佐世保から同じ汽車に乗った人に「背中におぶっている子はもう死んでいるよ」と告げられました。でも、実家にたどり着いて重湯を飲ませると、息を吹き返したそうです。

 そんな経験を持つ順子はしっかり者。中学卒業後に青年団の行事で知り合った私はひそかに心を寄せていました。帰省するたびに大した用もないのに、尾野見小に顔を出したものです。それを察した私のいとこが「順子ちゃんを嫁にもらえ」と強く勧めてきます。いとこによると、順子もまんざらでないとのこと。

 難関は義父でした。シベリア抑留から帰還しても希望した警察には戻れず、地域では「怖くてやかましい人」で通っていたのです。でも私には勝算がありました。ある大雨の日。私はたまたま義父の車が田んぼに落ちかけている現場に出くわしました。「これはアピールのチャンスだ」と、パンツ1枚になって車を引き上げるべく奮闘し、大いに感謝されていたのです。

 ここは直球勝負だ-。67年2月、休暇をもらって帰省し、順子の家を訪ねました。「こんばんは」とあいさつすると、既に私に好感を持っていた義父は「おう、上がらんな」。単刀直入に「順子さんをください」と言って頭を下げました。順子は目を丸くしていましたが、義父から「結婚したいのか」と問われると、「はい」とはっきり答えてくれました。そして私たちの新生活が東京で始まります。 (聞き手 鶴丸哲雄)

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