「ああ 菊兵団 -ビルマ縦断作戦-」を読み解く ビルマ戦記を追う<11>

西日本新聞 文化面

「ああ 菊兵団 -フーコン作戦-」の続編という形で三年後に著された本である。フーコン谷地撤退後から終戦までが記されている。むしろ戦記としての価値はこちらの方が高い。バーモ、シュエリー河、メイクテーラ、シッタン河など、重要でありながらあまり知られていない戦場の記述が続く。

 中でも昭和二十年二月から三月にかけて行われたメイクテーラの戦いは、多くの九州人ひいては日本人が知っておくべきものだろう。ビルマ戦をほぼ決定付けた戦いだからである。イラワジ河で英印軍を阻止しようとしたイラワジ会戦も、結局のところメイクテーラの失陥で意義を失った。

 英印軍が殺到したときメイクテーラの守備力は皆無に近かった。同地には兵站(へいたん)勤務者や病院勤務者、そして入院患者などしかいなかった。そのことごとくが臨時の隊に編成されたあげく、英印軍に蹂躙(じゅうりん)されることとなった。

 兵站を支える町であり、いくつもの飛行場を抱える地である。奪い返さねばビルマ戦線が崩壊しかねず、第十八師団にもメイクテーラへの転進が命じられる。この場合の転進は本当の意味の転進である。インドと中国を繋(つな)ぐルートの遮断、その後の敵南下阻止と戦い続けた同師団は、集結も終わらぬうちに中部ビルマへ急ぐ。

 その先に待っていたのは茫漠(ぼうばく)たる平野だった。飛行場群が置かれるような土地での戦いは、劣勢な側にまったく不利である。乾燥地帯とあって土も硬く、将兵はタコツボすら満足に掘れなかった。悪戦苦闘の末、三月の下旬になってメイクテーラ奪回は断念される。そのとき第十八師団は、この地への到着時の三分の一に戦力を減らしていた。

 私は三月のメイクテーラに一度行ったことがあるのだが、印象深く残っているのが乾期の陽光の厳しさである。どこも日陰に乏しく、景色のはすべてが眩(まぶ)しかった。将兵の味わった苦しみは想像を絶すると言うほかない。 (こどころ・せいじ、作家)

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古処誠二(こどころ・せいじ) 1970年生まれ。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年に「UNKNOWN」でメフィスト賞を受賞しデビュー。2千冊もの戦記を読み込み、戦後生まれながら個人の視点を重視したリアルな戦争を描く。インパール作戦前のビルマを舞台にした「いくさの底」で毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。直木賞にも3度ノミネートされている。

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