聞き書き「一歩も退かんど」(12) 事故で左目を失明… 志布志事件冤罪被害者 川畑幸夫さん

西日本新聞 オピニオン面 鶴丸 哲雄

 1970年9月21日。あの日のことを思い出すと、自分の軽率さが悔やまれてなりません。

 タンクローリーの運転手だった私。宮崎県日南市から鹿児島県鹿屋市まで、セメントを運んできました。タンクの中のセメントを、ホースを使って生コン工場のサイロに移し終え、後片付けにかかった時です。

 「熱いっ」。突然、顔全体がものすごく熱くなり、両目を手で覆いました。

 ホースを外した瞬間、タンク内に残っていたセメント混じりの温度80度ほどの圧縮空気が、私の両目を直撃したのです。四つある空気抜きバルブのうちの一つを開け忘れていたことが原因でした。その日は雨が降っていて、サングラスも外していました。

 すぐに水道へ走り、ホースから水をジャージャー出して、目に水をかけました。近くの眼科医院に運び込まれ、1時間ほど両目を洗浄してもらううち、右目は見えるようになりました。ですが、最初は右目より見えていた左目が次第にぼんやりし始め、やがて見えなくなりました。

 その医院には1カ月入院しましたが、ついに左目の視力は戻りませんでした。看護師さんは「実は運び込まれた時、先生が『角膜が煮えている。失明は避けられないだろう』とおっしゃっていました」とのこと。退院後、妻の順子が「大きな病院なら手術してくれるかも」と福岡の九州大病院に連れて行ってくれましたが、やはり無理でした。

 下の娘がまだ0歳の時です。片目の視力を失った以上、大型車の運転手としては働けません。妻と父母が仕事や農作業に出た家に、幼い娘2人とこもりきりの毎日です。こんなことをしでかした自分に腹が立って、腹が立って…。失明した左目を隠すためかけ始めたサングラスを、何度も壁に投げつけては壊しました。そのたびに、妻が黙って買い直してくれました。

 しばらくして、深夜に居間から「カサカサ」と音がするのに気付きました。私の代わりに一家の生計を支えようと、妻がタクシー運転手になる勉強を始めていたのです。

 こんまんまじゃいかん、何とかせんな-。私は東京で菓子店を営む叔父の川畑収に電話しました。

 「収あんやん(兄さん)。おいは左目が見えんごっなった。菓子職人の修業をしたか」

 叔父はこう言いました。「分かった。幸夫、まずは1人で東京に来い」 (聞き手 鶴丸哲雄)

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