「魔のシッタン河」を読み解く ビルマ戦記を追う<14>

西日本新聞 文化面

 第百十八兵站(へいたん)病院で勤務した亀尾進氏の回想記である。九州医専を卒業し、昭和十八年四月に召集令状を受け、同氏は軍医見習士官となって出征した。タイトルにあるシッタン河は戦争末期の敵中脱出において障害のひとつとなったビルマ第三の大河で、本書における回想の重きはそこに置かれている。

 戦況の推移をざっと説明する。

 昭和二十年三月下旬、メイクテーラの戦いに決着がつくと日本軍は戦線維持がかなわなくなった。雨期入り前に首都ラングーン(ヤンゴン)を占領しようと英印軍は急突進を繰り返し、約一カ月後目的を達する。これにより第二十八軍将兵を主とした人々は退路を断たれ、ペグー山系に集結することとなる。しかし三万名を超える将兵等の集結は容易でなく、ペグー山系での籠城もまた容易ではなかった。得られる食糧は乏しく、マラリアが蔓延(まんえん)する。いずれ自滅に至るのは目に見えており、第二十八軍は多大な犠牲を覚悟で七月下旬に一斉脱出を開始する。大河と水田と湿地と敵襲にその行軍は難渋する。第二十八軍司令部が収容兵団の司令部に着いたのは八月十四日である。そこで初めてソ連の参戦等を知り、翌日終戦の放送に接している。この敵中突破行における戦没率は四割と言われる。

 他の記録にも見られるが「魔のシッタン河」にも兵隊たちが青竹を担いでいたことが記されている。渡河材料とするためである。すでにビルマ国軍も反乱し、ビルマ人の協力には期待できなかったのである。

 なにぶん参加将兵が多く、その行動範囲も広いため、安全域までの距離は一概には言えない。ペグー山系からシッタン河までの距離のみを取っても直線でおよそ五十キロあり、渡河を終えても行軍は終わりではなかった。闇夜の中で方向と位置を見失った例も多い。言うまでもなく行軍は終戦後も続くことになる。終戦の時点でもシッタン河を渡れずに彷徨(さまよ)っていた将兵も少なくない。

 (こどころ・せいじ、作家)

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古処誠二(こどころ・せいじ) 1970年生まれ。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年に「UNKNOWN」でメフィスト賞を受賞しデビュー。2千冊もの戦記を読み込み、戦後生まれながら個人の視点を重視したリアルな戦争を描く。インパール作戦前のビルマを舞台にした「いくさの底」で毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。直木賞にも3度ノミネートされている。

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