「軍楽兵よもやま物語」を読み解く ビルマ戦記を追う<17>

西日本新聞 文化面

 ペグー山系に立て籠(こ)もった方の書いた本をさらっていて思い出したのが、斎藤新二氏の手にかかる本書である。軍楽兵という存在は広く知られていても軍楽兵だった方の書いた戦記となれば珍しい。実際、読んだことのない日本人が大半だろう。斎藤氏には甚だ失礼ではあるが、ペグー山系における艱難(かんなん)や敵中突破に関する辛苦は省いて紹介したい。

 斎藤氏は昭和十九年七月に陸軍戸山学校軍楽隊を卒業した。軍楽隊員となるのは簡単ではなかったという。受験の競争率は五十倍から百倍に達し、なおかつ家系調査は近衛兵のそれよりも厳しかった。これは天皇陛下の間近で演奏することもあり得たからである。

 そのため軍楽兵はどこへ行っても一目置かれたようである。宿舎も給与も将校並みの待遇だったと記されている。ビルマへの途上のシンガポールで喫茶店に入り、演奏を行った兵站(へいたん)病院で看護婦に声をかけられ、そうした様子は青春を謳歌(おうか)する現代の若者とあまり変わらない。このとき斎藤氏は十八歳、階級は上等兵だった。

 ビルマに着いたのは十一月である。同月下旬にはビルマにおける初めての演奏を行っているが、その目的のひとつは宣撫だった。

 十一月下旬と言えば第十五軍がマンダレー方面へ向けて転進していた頃である。マンダレーは地理的にはビルマの中心に位置する。かつて王朝が置かれていたこともあってビルマ人にとっては心の中心地でもある。さしずめ日本人にとっての京都だろう。これを失えばビルマ人の心はどうしても離れる。斎藤氏が活動した南部でも現地住民の心を離すまいと手が尽くされていたのだった。

 兵隊の前で、ビルマ人の前で、軍楽隊は演奏を続けた。戦の先行きが暗いことは誰しもが承知している。「分列行進曲」などの勇壮な曲に戦意を鼓舞されつつも、兵隊たちの心はやはり故郷にあった。民謡や童謡の演奏となれば目を潤ませる兵隊もいたという。 (こどころ・せいじ、作家)

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古処誠二(こどころ・せいじ) 1970年生まれ。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年に「UNKNOWN」でメフィスト賞を受賞しデビュー。2千冊もの戦記を読み込み、戦後生まれながら個人の視点を重視したリアルな戦争を描く。インパール作戦前のビルマを舞台にした「いくさの底」で毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。直木賞にも3度ノミネートされている。

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