平野啓一郎 「本心」 連載第59回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「ああ、そう誤解するかなあ?」

 富田は、呆(あき)れたような顔で僕を見ていた。ガラスのテーブル越しに、僕は靴下にサンダルを履いた彼の足の指が、苛立(いらだ)たしげにピクピク動いている気配を感じた。

「以前にも説明しましたよ、……あのね、安楽死をこちらから提案するようなことは、絶対にないんですよ。うちの病院だけじゃなくて、それは、世間のどこの病院もそう。だって、意味がないでしょう?」

「母は、もう亡くなってるんです。安楽死でもありませんでした。だから、全部、本当のことを教えてほしいんです。母は、ここで、自分から安楽死を願い出たんですか?」

「そうですよ。ブロックチェーン上の動画も、一緒に確認したでしょう?――基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない? あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」

「どうしてそれが、母の本心だって、先生にわかるんです? 違うでしょう? 母は本当は、もっと生きたかったんです。だけど、今の世の中じゃ、そんなこと、言い出せないじゃないですか。母の世代は、ずっと将来のお荷物扱いされてきて、実際そうなったって、社会から嫌悪されてる。安楽死を美徳とする本だって溢(あふ)れ返ってる。『もう十分』と、自分から進んで言わざるを得ない状況は、先生だってよく知ってるでしょう?」

「私は、そういう思想的な問題には踏み込みませんよ。医師ですから。」

「思想?」

「それは、公共的な死生観もあるでしょう? 国が今みたいに切羽詰まった時代には、長生きをそのままは肯定できないだろうなあ。次の世代のことを考えて、死に時を自分で選択するというのは、私は立派だと思いますよ。」

 僕は、時間を体から抜き取られてしまったかのように固まっていたが、心拍の激しさには、哄笑的(こうしょうてき)なところがあった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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